生まれてから今までずっと海の上で料理人として暮らしてきたサンジにとって、波による船の揺れは彼の眠りを妨げるものではなかった。
どちらかと言えば陸の方が揺れなくて逆に落ち着かない。サンジの身体は海の上で無意識にバランスをとることに慣れ過ぎているのだ。だがしかし――サンジの胸の上で眠っていた者にとっては、そうではなかったらしい。
「う……うぁ……」
ひゅ、ひゅ、と呼吸が不規則になったのにサンジは浅い眠りの中でふっと気付いて体を起こす。
「お、い、こら、泣くな……」
サンジの言っている事が判っているのかいないのか、『彼』は声を張り上げずに、ひゅっく、ひゅっく、としゃっくりの様な音を出すだけに耐えている。偉いぞ、とサンジはその小さな額にキスをしてすばやくソファから立ち上がり、シーツから作らせたおくるみで彼をくるんで男部屋の外へ出た。
「今ミルク作ってやるから……な。おしめもか?」
その『彼』――サンジの腕の中にぴったりと納まっている赤ん坊はそうだとでも言いたげに小さな紅葉の様な手を持ち上げてサンジにのばす。
伸びきらない手はパンパンで、関節が埋没して輪ゴムをきつく巻いたみたいになっていて、ぷにぷにしていた。
ミルクよりも先におむつを換えて尻を拭いてやらねばならぬ。冷たい夜風から赤ん坊を守る様に身を屈めて風呂場に向かいながら、サンジはここ数日煙草を吸っていないのでヤニの匂いのしない白い息を吐き出して、一人ごちた。
「グランドラインだからってクソ無茶苦茶すぎるだろ……?」
サンジが尻を拭いてやっているこの赤ん坊、航海中に突如として現れたのだ。サンジの肺活量限界ギリギリまでの悲鳴と、それにつられた赤ん坊の泣きわめく声が響いたのは他所の船の接近も一切なかった夜の事だった。
彼(性別は勿論確認済み)に名前はないのでみんな好き勝手呼ぶ。赤ちゃん、ベイビー、サンジ二世、それ、等々。勿論三つ目を呼んだ鼻の長い奴は何発か蹴りをお見舞いしてやった。
眠っているサンジの腹の上にいつの間にかいて、サンジから離すと泣き出すこの赤ん坊。サンジが抱いていれば、飯・おむつ・眠いを訴える以外では泣かないので、今ではすっかりサンジが面倒を見ることになっている。
何しろ現れたタイミングがタイミングなので、陸だったら何か女性に対する扱いについて不名誉なことを疑われたかもわからないが、とりあえず「どこかの赤ん坊が何らかの力によってサニー号に迷い込んできた」と言う事で落ち着いた。
「サンジが生んだのか?」という言葉を発した人物には一瞬海賊王になる夢を果たせなくなる危機が訪れかけたが、ナミの「サンジ君どうどう!」で何とか事なきを得た。
とにもかくにも赤ん坊はサンジから離れた途端にひどく泣きわめくし、そうでなかったとしてもサンジ以外に赤ん坊の面倒を見られる人材もいなかった。
チョッパーはかかりつけ医と、粉ミルクすら無い船上でなんとか赤ん坊が栄養を取るためのアドバイザーとしては大活躍だが、何しろちょっとでも赤ん坊が泣きそうになるとキョドるし危なっかしい。
おれが面倒を見る、とサンジが言い出すのにそう時間はかからなかったし、言いださなくてもそうなっただろう。サンジはおむつを替え終わって後は空腹の方を満たしてやろうとキッチンへ向かうと、視線を感じて一瞬歩を緩めた。
(てめェは気にすんじゃねェ)
見張り台の上から自分を見ているに違いない眼に、極力気づかないようなそぶりでサンジはキッチンへと逃げ込んだ。寒い風からか、それともその強い視線からか。それは自分でもわからない。
チョッパーががんばって作ってくれた疑似粉ミルクで作ったミルクを、当然と言うべきか、初めは彼は飲まなかった。しかし、サンジの「飲まなきゃ死ぬんだぞ、おまえ」という半分涙声の懇願に根負けしたか、命の危機を自分で感じ取ったか、今ではサンジの手からなら何とか飲むようになった。
本当なら母の乳が恋しかろう。早く親元に帰してやりたいが――サンジには一つ気がかりなことがあった。この赤ん坊の親、についてだ。
もちろん、ふっと手元から消えた赤ん坊が海賊船に飛んでしまっているとも思わず半狂乱になっている親がいる可能性だってまだ捨ててはいない。いないのだが、キッチンの、丁度今サンジが座っている椅子に座って酒盛りをしていた剣士との会話が否が応にも脳裏によみがえってくる。あの強い視線をついさっき浴びたばかりだからなおさらだ。
あの日は、今日みたいに寒い夜だった。瓶から直接飲むことを好む酒豪を制し、米の酒を燗にして出してやったのだ。もう4,5日もすれば米が名産の島につくと美女航海士が言ったので、ならばと在庫をだしてやったのだ。ついでにちょっとしたつまみも。
めったに見せないニカッとした笑顔を見てしまえば、出会った時からいがみ合いの続く喧嘩相手だったとしてもこちらも気分がよくなるというものだ。そうして互いに珍しく口げんかもなしに他愛もない会話に興じながら、たまに相手に酌をしてやると言う穏やかな時間を過ごしていた。
サンジ自身は酒に弱いつもりはないが、ナミやゾロと言ったザルというよりワク、むしろもうそのワクすらないような人種に慣れてしまうと自信がなくなる。この日も例に漏れず、ケロッとしているゾロの横でサンジはぐんにゃりしていた。
心地の良い倦怠感。筋肉が解れ、骨までとろけるチーズになったみたいにテーブルに突っ伏す。毎日磨いているテーブルの冷たさが心地よくて、すり、と頬を摺り寄せた。
「ガキみてェ」
「熱燗で酔っぱらうガキがいるかよ」
「ガキだからこそ酔うんだろ」
「ガキは酒のまねェっつってんだタコ」
その仕草を、バカにすると言うよりは面白そうに言うゾロに、サンジも言い返しはするもののそこに険は含まれなかった。ふわふわとする視界のなかで、珍しいものでも見る様な――いや、実際珍しいのかもしれないが、大人しいサンジを見るゾロに、ふと思い立って尋ねる。
「お前、動物とか……ガキによく懐かれるよな。なんでだ?」
「おれが知るかよ。突然なんだ」
「いーや、別に。おまえが、ガキとか言うから」
ちょっと思っただけだ。そう言いながらまたちびちびと猪口を傾ける。そうして、また余計なことを考えた。酔っ払いというのはえてして厄介なもので、普段ならこれは言わないでおこうと思う様な事もするりと言ってしまう。
「てめェのガキはどんなガキになんのかね。やっぱ剣士かな」
「……下らねェ。お前飲み過ぎだ、もう寝ろ。残りは飲んどいてやる」
「バッカお前飲みてェだけだろ。っつかさ、ちったぁ考えた事ねェの?あー、男が生まれるって勝手に考えてたけどもしかしたらレディかもしんねェなぁ。精々てめェに似ねェよおに、」
だんだん楽しくなってきたのでぼんやりしたまま早口になってしまいちょっと噛んで間が空いた瞬間を見計らってか偶然か、ゾロはぼそりと呟いた。
「……いらねェ」
「あ?」
「そんなもんは、おれには、要らねェ」
冷水を、頭からぶっかけられたような気分になった。さっきまで心地よかったはずの机の冷たさが身を震わせるほど冷たく感じる。ゆっくりと、言い聞かせるように告げられたその言葉にサンジの酔いはすっかり冷めてしまった。
――剣士として最強を目指すと決めた時から命なんてとうに捨ててる
あの時の言葉が耳によみがえる。己の野望のために命を捨てた男に、家族など、命など、ぬくもりなど。
机の板は冷たくて顔がこわばるのに、身体が起こせない。頬を押し付けたままそう言い切ったゾロの横顔をぼんやりと見つめていた。
さっきまで少しくらいは機嫌良さそうに見えたのに、今はむっつりと黙り込んでそれ以上口を開こうともしない剣士の横顔を。気分を害したのだろうに何も言わない男は、サンジはもう酒を呑まぬと踏んだか徳利を勝手に取り上げ、残った酒をちびちびと舐めはじめる。
(野望が重すぎて、これ以上は抱え込みたくねェか、ゾロ)
絶対に、絶対に口に出して言いはしないが、ゾロはいい男だ。馬鹿だしゴクツブシだし甲斐性なしはらまきだし緑だし、生活の面においてはダメダメだが、判るものは判るはずだ。この男の子供を欲しいと思う女は少なくないときっと思う。
(おれが、)
酔いがさめたと思ったのに、泥酔しきった時みたいに馬鹿な事を思った。
(産んでやれたらさ、)
(てめェの重荷には、ならねェようにおれだけで育ててやってもいいくらい、)
(お前さ、かっこいいよ、)
(ゾロ)
口に出して言わなかったのは、不幸中の幸いだったかもしれない。
まあ、酔いが冷めてしまえばそんな事を思った事すら頭を抱えてぐおおおと唸ってしまいそうな出来事だ。できればサンジにとっても忘れたい出来事の一つとなったわけだが、忘れようにもこの腕の中の赤ん坊がそれをさせてはくれない。
当然サンジがゾロの子を産んだわけではない。ゾロに受精させられたような心当たりもなければそもそもサンジにはそんなミラクルな機能は備わっていない。
だが、あの会話と、あの自分の血迷ったモノローグと、そしてこの赤ん坊である。すべての事象にはなにかの理由があるのだとすれば、自分の知る出来事と関連付けたくなるのが人間の心理という物だ。
それに、だ。誰も言わないのでサンジも気のせいだ気のせいだと目を逸らしてきたのだが、この赤ん坊が現れてほぼ丸二日、42時間つきっきりで見ているサンジにはどうしても勘違いだとは思えない事があった。
(この赤ん坊、ゾロに似てねェか……?)
髪はふわふわなのと少なすぎて茶色に見えるし、ましてや新生児など親なら見わけもつこうが、サンジはこの腕の中の赤ん坊が他の赤ん坊と混ざった場合こいつがうちに迷い込んできた赤ん坊だと見分けられない自信があった。なのに思うのだ。この赤ん坊はゾロに似ていると。
「それとも、願望がそう見せるってやつかね……」
あの世迷言は酔っ払いのたわごとだが、深層心理でこの子供をゾロの子供だと思いたい自分がいるのだろうか。いやいや、そんなバカな。
「飲んだな。よし、ゲップしろ」
口を拭ってやってから抱き上げ、背中をポンポンと叩く。程無くして水っぽい音が赤ん坊の喉から漏れて、えらいぞ、とそのままこめかみにキスをして胸に抱き直した。始めはおっかなびっくりだったが慣れたものだ。少し乱れたおくるみを直すと、男部屋に戻るべくキッチンの戸を開けた。
「……うわ」
「なんだその嫌そうな顔は」
「そりゃ嫌な顔にもなるだろ。黙って覗き見とは悪趣味な野郎だぜ」
「別に……」
見ていたわけではなく、水なり酒なり取りに来たところに偶然サンジが出てきただけだろうが、因縁をつけるのはいつもの癖だ。だが、腕の中に赤ん坊がいる以上は喧嘩をおっぱじめる訳にもいかない。
「酒は封が開いてるのが一つある。グラス一杯だけだ、判ったな」
いくら包んでやっても寒空の潮風は赤ん坊には冷たすぎる。早く部屋に戻る為にゴネられない程度の許可を与えたが、ゾロは返事をせずにサンジの腕の中の赤ん坊を見ていた。なにやら苦虫を噛み潰したような顔をしているように見えなくもない。
抱いてみるか?なんて事を聞きそうになって、脳裏にまた自分の考えていた戯言がよみがえる。
ゾロの、重荷には。
うわああああ。うわあああああ。頭を掻きむしりたい。子供を抱えていなければ確実に掻き毟っていた。
じろじろ見てんじゃねえとかなんとか言っておいた方が良かったのかもしれないが、もうまだ記憶に新しい黒歴史にサンジはいたたまれなくなって足音を立てない大股歩きでゾロをほったらかしに男部屋へと戻っていった。
ありがたいことに、赤ん坊は次は朝まで起きなかった。本当に良く眠る赤ん坊だ。
ゾロみたいに。
「で?これはどういう事なの?サンジ君」
「おれが聞きたいくらいです……」
赤ん坊はたしかに朝まで起きなかった。かと言ってサンジの目覚めが健やかだったかと問われれば断じて否であった。他のクルーも同様だ。何故かと言えば、あの赤ん坊が現れた朝とのデジャブの様にサンジの悲鳴が船中に響き、驚いた赤ん坊が泣き喚き、それにつられた別の人間が泣いた。
泣きたいのはおれだと言っても許されるだろう。サンジの両腕には赤ん坊が抱かれており、片足にひっしと見知らぬ子供がしがみついている。最近赤ん坊の世話で忙しすぎてプレスを怠っていたパンツはたっぷりと鼻水と涙を吸って一部白くなっている。
「……あのよう」
突如現れた"二人目"は、赤ん坊より少し成長していた。おおむね2歳くらいだろうかとチョッパーが推測したが、何しろサンジの足にしがみ付いてサンジ以外のすべてを警戒している。診察できない。
そんな中、ウソップがその赤ん坊よりも自我を持ってサンジに甘える幼児といつもの無表情でなりゆきを眺めていたゾロを見比べ、おずおずと口を開く。ああ、ついに言うのか。言ってしまうのか、ソレを。
「……赤ん坊が出てきた時から思ってたんだけどよ。そいつら、似てねえか?ゾロに」
あああ。サンジは両手で顔を覆いたかったが、生憎と赤ん坊をしっかりと抱きしめているのでできない。顔を覆う事は出来なかったので周りのみんなの視線がゾロに向かうのに合わせてなんとなく顔を見る。
「……あァ?」
思わぬことを言われたゾロはその言葉とみんなの視線の意味を理解するまでに数秒を要し、その上で「あほくせェ」と職業柄ではないだろうがそれらを一刀両断した。
「だって、あんたならそこらじゅうの港に女がいてもおかしくない顔してるもの」
「顔かよ」
態度も性格も、と付け加えられ反射的なツッコミが藪蛇だったゾロは忌々しげに舌打ちをする。赤ん坊を片手で抱き直してもう片方の手で二人目の方を撫でてやるとゾロがサンジを睨んだ。子供を睨んでいるのかもしれないが、それの方がもっと悪かろう。
ギロリと睨み返してゾロから守る様に抱え込んで背を向けてやると、しばらくしてゾロはキッチンを出て行った。
「とにかく……この子もサンジ君にくっついて離れないし、お願いできる?」
「まかせとけナミさん!」
「ゾロにちょっと似てるからって何が変わるわけでもないわ。次の島で親探しすることには変更なしよ」
結局ウソップはサンジが赤ん坊を背負えるようにおくるみに手を加えると意気込んで出ていき、ルフィは興味津々で子供に話しかけていたが脅える子供を見たチョッパーに引きずって行かれ、聡明な女性二人は「何か調べてみる」と出ていき、残されたのは赤子と子供とサンジだけになった。
溜息を吐きたかったが、赤ん坊よりもずっと自我が芽生えている推定二歳児はそれを見ると不安げな顔をする。いかんいかん、とニカッと笑ってやると少年もへらっと笑った。
「かーたん」
「……違うぞ。おれは男だからどっちかって言うと……いや、でもとーちゃんでもねェしな」
「……かーたん」
「……わかったわかった。今だけかーちゃんな。でも、いいか良く聞け、どっかのアホクサレマリモみたいにおれの名前を知らないまま育つなよー?おれはサンジだ、サンジ」
「あんじ」
赤ん坊もいるにはいるが、実質二人だけになると子供はよく喋った。ボキャブラリー自体は多くはないが、チョッパーの事を「わんわん」と呼んだり、サンジが昼食用に作り出した握り飯も「おににに」と呼んだり、ものと名前の関係性はそこそこに把握しているようだ。
それだけの知識があるにもかかわらず、なにゆえ懐く相手が自分なのかとサンジは唸る。
スリコミのようなものかもしれない。初めてみた相手を母親だと思い込む現象。
昼食もミルクタイムも終えてタイミングよく二人仲良くおねむになった子供たちは、ウソップが作ったゆりかごと男部屋のソファですいよすいよと健康的な寝息を立てている。
おやつは昨日から作っておいて丁度頃合になったフルーツケーキが冷蔵庫で出番を待っている。タイミングを見計らって冷蔵庫から出してお茶を淹れればいい。ホイップを添えたかったがクリーム類は疑似粉ミルクの材料になるので在庫を切らしたくない。
二歳児(推定)が面子に増えたのでコーンチャウダーなんかもつくりたかったが、ミルクがないならないで何とかするのがコックの仕事だ。
(パウンドはブランデーが利かせてあるからな……今のうちにじゃがいもを摩り下ろしとくか。芋もちでも作ってやれば口が楽しいし、喜ぶだろ)
二人がぐっすりと寝入っているのを見計らって立ち上がると、上にかかった毛布を掛け直して男部屋を出る。倉庫でいくつかのじゃがいもを手に取った所で、背後の扉が開いて振り返る。
「……昼寝の場所でも探してたのか?」
男部屋には子供がいる。外はさすがに寒い。そうでなければゾロが倉庫を目指す理由がない。この男ならば倉庫の食べ物を盗み食いすることもないだろうと手ごろなサイズのじゃがいもを選び直す為に背を向けたら、低く押し殺した声で呼び止められる。
「おい」
「あ?」
「あんま、深入りすんじゃねェぞ」
何のことを言っているのかは明白だった。赤ん坊と子供の事だ。
言われなくたって判っている。島について赤ん坊の親が見つかれば入れ込んだ分だけ別れが辛かろうし、それ以前にもし親が見つからなかったとして、このまま海賊船に乗せていけるのかもわからない。
落ち込みやすいサンジの事を思って――の事なのかもしれないが、それを素直に受け入れられるならこの男とだってずっと仲良くやってこられただろう。ジャガイモを木箱に戻しずっと控えていた煙草を口に銜え、久しぶりの様な感じのするマッチを擦り、煙を深く吸い込んだ。
久しぶりの煙が体中に染みて、指先が痺れるような気がした。そしてようやく気が落ち着いて口を開いた。
「てめェにゃ関係ねェよ」
赤ん坊を自分が世話すると決めた時から、もしかするとそのずっと前から(忘れたい)、ゾロには子供の事で面倒をかけまいと考えてやってきたのだ。だが、口を出してくるなら話は別だ。
「関係ねェだと?そのガキがいる時に敵襲があったらどうすんだ。赤ん坊抱えて、脚にガキひっつけて、ご自慢の蹴りが出せると思ってんのか」
「そん時はナミさんやロビンちゃんに子供は任せて……」
「そのガキを守るためにナミやロビンが怪我でもしたら、またてめェはギャーギャーうるせェだろ」
「……ッ何なんだてめェ。だったらガキどもを海に放り投げろとでも言うのかよ!」
「別にんなこた言ってねェ……ただ、次の島を出る時にアホなコックがガキを連れて行くとか言われたらかなわねェからな」
自分でも危惧していたことをズバリ指摘され、言葉もなくフィルターを噛んで睨み付けると、ゾロはいら立ちを隠しきれない様子で舌打ちをすると、部屋の隅っこへ行って横になってしまった。これ以上サンジと話すつもりはないらしい。
言いたい事を言うだけ言って背を向けてしまったゾロにサンジは怒り以上に戸惑いを隠しきれなかったが、こんな喧嘩は初めてだ。こんな風に陰険というか――サンジの力ではどうしようもない事に対してこうもしつこく文句を言う男だったろうか。手も出してきやしない。
このまま横たわるマリモ頭を血の海に沈めてやっても良かったのかもしれないが、目の端に映ったジャガイモのがそれを止めた。そろそろ戻ってやらなければ。
「……クソが」
もはやこちらを一瞥もしないゾロに何か胸が痛んだ気がして、ガンッ、と極々手加減をして壁を蹴り、貴様のせいで頗る不愉快になりましたと言う事だけは伝えてジャガイモを手にキッチンへと戻った。臨時かーちゃんは忙しいのだ。
推定二歳児は芋もちをたいそう喜び、いつまでももっちもっちと歯ごたえを楽しんでいた。ルフィは特大パウンドケーキを平らげた後に芋もちを欲しがったが、「これはチビ用の特別だ」と突っぱねる。
涎の海を作ってそれを見ているルフィに一口二口分けてやり想定外の量を持っていかれて涙ぐむチビに、赤ん坊をゲップをさせてやりながらまた作ってやるからと言ってやれば、ふにゃ、と笑う顔はさっきまでささくれ立っていたサンジの心を慰めた。だが。
(やべえな……思った以上に赤ん坊ってミルク飲むんだな)
チョッパーの疑似粉ミルクは回転分離うんたらとかいう謎の製法によりつくられているのだが、原材料はこの船にあるありったけの乳製品であった。
飲料用乳製品なんてさほど日持ちするものじゃないので多くは積んでいない。生クリームは風味が落ちるのを承知で冷凍してあって、今回はそれが命綱になった。だがそれも多くはない。
「かーたん、どたの?」
「ん?いや……なんでもねえよ?」
クルーが周りにいる時は食糧に不安があってもおくびにも出さないようにしているが、子供ならわからないだろうと無意識にでも思っていたのか不安が顔に出ていたらしい。笑顔を作ってチビの口まわりを、こっち来い、と呼び寄せてから拭いてやる。
「かーたん、いこ、いこ」
小さな手が頭を撫でようとして届かなかったらしい、サンジの顔を掌でぺちぺちと触る。こんな小さな子供に慰められてちゃ、臨時だろうがなんだろうがカーチャン失格だな、と苦笑いが浮かぶ。つやつやの額に痛ましい皺をよせるチビに胸が痛んだ。
だいじょーぶ、と額に額を合わせてやると、サンジは立ち上がって首をひねる。
さっきから心情的に痛い事が続けて起こり、胸が痛むと思っていたのだが、どうも、本当に痛い気がする。突っ張る感じというか、言葉には表せない不快感が先ほどから胸の中を支配していた。
ちょっとごめんな、と赤ん坊をキッチンまで移動させておいたゆりかごに寝かせ、きっちり締めたネクタイを緩めてジャケットのボタンを外し、シャツの上から胸を押さえてみる。
「……?」
触った感じはどこもおかしくはないのだが、押すと痛む。さっきから嫌な予感がしてたまらず、サンジは自分を慰めてくれたチビの前でしゃがみこんで小さな両手を握る。
「ちょっとトイレ行ってくるから、大人しくしてろな」
「あい」
素直に聞き分けたチビの頭を撫でて、気持ち早歩きでトイレへ急ぐ。幸い使用中と言う事もなく中に入ってガチャガチャと内鍵をかけてから上半身の衣類を脱いだ。
鏡の前に晒されるのはなんの変哲もない、普段から見ている男らしい胸板だ。子供を産んだレディみたいに乳が腫れていると言う事もない。だが。
(気のせいだよな?気のせいであってくれ、頼む)
防寒用に、シャツの下に着込んでいたタンクトップの胸のあたりが濡れていたのだ。胸から出る液体なんて汗か怪我をした時の血くらいしか経験はないし、一般的な男性はみんなそうだろう。だが、濡れ方がどうにも乳首の所だけしか濡れていないのだ。
こんなことがあってたまるか、と思いつつも、恐る恐る押したら痛む乳首の周り、乳輪より少し外側のあたりを痛みを堪えてぐっと押してみる。
タラリ。
「は……ハハハ……ふはははは……」
乳が出た。
少し薄い乳白色のソレは、ニキビの中身とか傷が膿んだ時に出る様な汁ではない。まごうかたなき、乳である。母乳というには己の性別が憚られ、もはやこれを何と呼ぶべきか判らない。
赤子の食糧難を身体が感知し乳を出すようになったのか。さすが一流コック。
臨時カーチャンなどと自分を奮い立たせていたが、これで島まではミルクの心配はいらないなと素直に喜べるほどサンジは19歳男子を捨てていなかった。乳と一緒に涙と鼻水を垂れ流しながら、洗面台にがっくりと両手をついてぐすぐすと鼻をすする。
「嘘だろ………なんで……」
ルフィから乳が出てくれれば、ゴムだし、なんかゴムゴムのおしゃぶりとか言って乳首をおしゃぶりの形状にすることも出来たのではないか。性格的にもそれくらいあっけらかんとやってくれそうだ。
だがサンジは違う。海の一流コックはダンディでカッコイイ男でなくてはならぬ。立派なひげを蓄え煙草を咥えニヒルに笑うのが自分のスタイルであって、断じて赤子に乳をやる男であってはならないのだ。
優に十分はそこでめそめそしていたが、これ以上長く子供たちを置き去りにも出来ぬ。顔を洗って衣服を整え手洗いを出ると、ルフィが順番を待っていたらしくサンジどーかしたかー?と気に掛ける声をかけつつも駆け足で個室へと入っていった。
ちくしょう、お前からも乳が出ろ。そんな事を鬱々と考えながらキッチンに戻ったサンジは、悲壮感も露わに決意をした。とにかく出るもんは出るのだから、絞って出して飲ませるしかない。
そんな壮絶な体験をしたサンジだったので。
さすがに、翌朝三人目――先の子供二人よりもさらに2,3歳年上、どう見ても言い訳できないレベルでマリモジュニアな三人目が一緒に眠っていたことに気付いても、今度は悲鳴を上げなかった。
「とし?六歳」
その少年ははきはきと答えた。今までの二人と違ってサンジにべったりというほどではないが、やはりサンジを肉親――有体に言えば母親だと認識しているのは変わらず、ルフィたちと遊んだりしても最後にはサンジの所に走ってくる。二歳児と違ってかーちゃんと呼ばずにいてくれるのが救いだ。
竹刀が欲しいと言うのでウソップが古いオールで木刀を一本作ってやると、生意気に素振りの練習などをしている。もっともかなりへっぴり腰ではあったが。
子供が現れる間隔は殆どランダムだし、年齢もまちまちだが、小さい方から大きい方が出現していくのは間違いないようだ。打ち止めはいつだろうとサンジは遠い目になりつつ左右に揺れて背中で眠る赤子をあやした。二歳児は少しだけ慣れたチョッパーをモフモフして遊んでいるので助かっている。
もはやクルーもこの現象に慣れてしまっていちいち現れた六歳児を取り囲んだりはしなかった。慣れすぎだろ、とサンジは思う。彼らと一番長く、そして近くで時間を過ごしているのはサンジだが、一番納得が行っていないのもサンジだろう。乳が出てからは尚更だ。誰にも言っていないが。
皆はもう島に着くまでどうしようもないわあ、と順応してしまっているが、六歳児は今までと違う。意思の疎通ができるのだ。キッチンで彼にオレンジジュースを飲ませながら、そっと問いかける。
「なあ、お前、親はどこにいるんだ?」
火をつけない煙草を咥えて上下に揺らしながら尋ねると、いったい何を聞いているんだと言う顔をされた。口を利けるくせに、サンジにむかって指をさす。
「人にむかって指をさしてはいけません」
「サンジ」
説教をすると悪びれずに彼は指を引っ込めて、お前が親だとのたまった。この年なら、そしてこの外見――まるっきりチビのゾロだ――なら、多少手加減すればツッコミは蹴りで入れても大丈夫なんじゃないか。そんな風に思いながら、いやいや相手は六歳児だと眉間に血管を浮べながらそうか、と頷いた。
「おれが親なら母親はどんなレディだ?」
「……?だから、母親が」
「あーはいはい判ったもういい言うな」
「変なサンジだなー」
本当に不思議そうに言われてサンジは煙草のフィルターをがじがじと噛む。そうだよな、母親がおれだよな、乳だって出てるもんな。などとかなり自虐的な内容で自分の心を落ち着かせつつ、なら、と意を決して問いかける。
「……父親は?」
「わかんねェ」
どう見ても誰かの遺伝子引き継いでるのが丸わかりであるが、判らないと言う。そう言えば、赤ん坊は仕方がないかもしれないが、二歳児の方も推定父親のゾロには近づきもしない。懐いていないとか警戒していると言うよりは目にも入っていない様子だった。
「……どっから来たんだ?」
「……サンジ、さっきからどうしたんだ?キオクソーシツとかなのか?」
「あー……そんなようなもんだ。ちょっと混乱してんだ、ごめんな。だから教えてくれ」
心配そうに言うチビに適当ないいわけをすると、チビはそのまま信じてこくんと頷いた。こういう素直な所は似なくて良かったな、などと思いながら、一度は納得した様子のチビも困った様に首を振った。
「でも、どっからって言っても、おれはずっとサンジと一緒にいたから、わかんねえ」
馬鹿な。赤ん坊がサンジの傍に出現してから一週間も経っていない。ましてや、六歳児とは数時間の付き合いだ。しかしさも当たり前の様に言うので、自分が本当に記憶喪失か何かになってしまったような気分だった。
「サンジ……」
チビが不安そうにもじもじしながらサンジを見上げてくる。オレンジジュースはとっくに飲み終わったのに小さな両手で空のグラスを転がしている。いかん、見た目がゾロだからかなり扱いが雑になってしまったが、これはたしかに六歳の子供なのだ。そして、この船の中では自分しか頼れる大人がいない。
「ああ、ごめんな、そうだそうだ。だいぶん思い出してきたぞ」
「本当か!?」
「ホントホント。えーと、例えば、お前の好物がおにぎりだとか」
そう言ってやると、六歳児は本当に嬉しそうににぱあっとわらった。眩しいくらいの陽性の笑顔に罪悪感が募る。とりあえず、朝はサンドウィッチにしてしまったから、昼は詫びの代わりにおにぎりにしてやろう。そんな風に考えながら、サンジは緑色のマリモ頭を撫でた。
もしかしたら、ゾロの髪もこんな風に意外に柔らかかったりするんだろうか、そんな風に思った自分をまた恥じた。
味噌汁、出汁のきいた卵焼き、そしてさまざまな具のおにぎりと根菜の葉っぱの胡麻汚し。島に着く前なのであまり豪勢な食卓ではないが、いつも通りクルーたちの歓声に出迎えられたランチは順調に消費されていった。二歳児の食事の面倒を見てやりつつも、箸を握って卵焼きに突き刺そうとする六歳児を注意する。
「こら、箸はそんな風に使うもんじゃねェ。こうやるんだ」
「う……ん、むつかしいな…」
「フォークもってきてやろうか?」
「だいじょうぶだ、練習する」
意固地になって箸を使うチビを微笑ましく見ていたら、サンジが教えてやったとおりに持った箸でチビが狙いを定めていた卵焼きを、ゾロが、つまり大人の方がひょい、ととって食べた。
唖然である。これを「大人の方」と呼んでいいものかどうか。アレ?という顔をしたもののチビの方はそれを特に疑問には思わなかったらしく別の卵焼きに狙いを定める。口に卵焼きをいれたままさらにその卵焼きに大人の方(暫定)が箸を伸ばすので、サンジは卵焼きの皿を引いた。カッ、とテーブルに箸が刺さる。
「ほら、ちょっと遠かったな。取り皿に取ってやるからそこで練習しろ」
「ありがとうサンジ!」
素直に言うチビににっこり笑ってやると、嫌味たっぷりにゾロの方へと卵焼きの皿を戻してやる。むっすりとしたままゾロは卵焼きを取って砂を噛むみたいにそれを咀嚼した。
まったくいったいなんだと言うのだ。大人げない。自分にそっくりなのだから稽古を見てやるなり少しくらいは――いやいや。下手なことを考える前に頭を振った。すると、チビが箸を何とかうまく使って卵焼きを口に運んだ。
「はんじ、ほあ!」
「口の中を見せるな馬鹿!呑み込んでから喋る!」
「ん!」
「よしよし、上手だったな」
チビを褒めてやるとチビは心底嬉しそうに笑い、そしてチビじゃない方は非常に不愉快そうに顔を顰めた。子供が嫌いという訳ではないはずだから、おそらくこのやり取りが不愉快なのだろう。
それもそうだろうなと思う。自分とそっくりな顔の子供が事もあろうにいけ好かないコックを母親だと慕っているのだ。もし逆の立場だったとしたら――考えたくもない。乳を出すロロノア・ゾロなんて。いや、乳を出す一流コックについてだって本当は考えたくもないのだが。
「少し、考えてみたのだけれど」
食事も終えて、残ったのは食器を洗うサンジとそれにぴったりとくっついている赤子と二歳児、食後のお茶を楽しむロビンとナミ。そしてなぜか居残って茶を啜っていたゾロが発言者であるロビンの顔を見た。他のメンツはメンテナンスや六歳児と遊ぶべく――もしくは六歳児に遊んでいただくべく、既に甲板へと出て行っている。
「何をだい?ロビンちゃん」
「プチ剣士さん達の事」
「……あいつらとおれは関係ねェぞ」
あの似かたで良く言えるな、とサンジとナミは同時に思ったが、二人ともロビンの話の続きの方が気になったのでゾロの一言は黙殺した。ロビンは口元に運んでいた湯呑をテーブルに置いて、サンジが背中に負っている赤ん坊を見る。
「この子たちは、未来から来たゾロの子どもなんじゃないかしら」
「ありえねェ」
ゾロが即答した。ナミはあきれた様子で額を抑えるが、サンジはゾロが即答する理由を知っている。先をも知れぬ剣士として、子を成さぬとこの男は決めている。この男は自分がそうと決めたら簡単なことでは撤回しない。そしてそんな自分を知っているからこそ、あり得ないと自信を持って即答できるのだ。
「あり得ないはあり得ない。グランドラインに来て長いんだから、いい加減学んだら?」
「グランドラインに入る前からおれァ自分を知ってる。おれはガキなんざつくらねェ」
「あらそうなの。まさかゾロが種無しだったなんてねー」
「違ェ!おれはガキを作る気がねェっつーだけの話だ!」
「いいじゃねェか、ガキつくらねェなら種無しでも。世界中のレディの為におれが潰しといてやろうか?その二つのゴールデンボールをよォ!」
「クソコックてめェ……」
ひゃっひゃと思いっきり指さして笑ってやる。本当は理由を知っているだけに尻のすわりが悪いが、ここでゾロをからかわないサンジはサンジではない。ゾロがゆらりと席を立つ気配がして、好戦的に笑い返す。最近子育てで喧嘩の一つもしていないのだ。少しだけ赤ん坊をナミとロビンに任せて――
「うっ……あぅ……あー……」
「……いけね!あー、腹減ったな!ごめんなぁクソマリモの相手なんかしてる場合じゃなかったな。すぐミルク作ってやるからなー」
サンジの考えを読んだ様に背中の赤子がむずがりだした。さっきまで黙っていた二歳児も諍いの雰囲気を察したかサンジのズボンをぎゅっと握る。あっさりと毒気を抜かれて緑の髪を撫で、湯を沸かすために三人に背を向けた。
「未来から来たゾロの子どもなら、納得いくところがあるのよね」
そんなサンジの母親っぷりを一通り眺めてからナミが言う。
「えぇー!?ナミさんなんでー!?」
「ほにゃー!」
「あぁぁぁ判った判った」
何しろ乳が出ていててんてこ舞いな自分自身の状況に今だ納得が行っていないサンジが反射的に叫んだが、ついに赤ん坊が大声を上げだした。サンジは急いでトナカイ特製の粉ミルクの準備をするが、慌てたところで湯が早くできる訳でもない。背中の赤ん坊を胸に抱き直して背中を叩きながら揺らしてやる。
「本人は全否定してるけど、例えばゾロに子供ができたとして、それで何らかの理由で船に一緒に乗せたとしてよ。ゾロがあんなふうに子供の面倒なんか見ると思う?」
「あら、案外子煩悩なお父さんになりそうだと思ったけれど」
「今より年を取って多少大人になれば、自分の機嫌のいい時くらいは何かするかもしれないけど、結局面倒見るのってサンジ君だと思うのよね」
それは完全に立証済みというか今現在そうなのだから否定ができるはずもない。空腹のせいで泣き止まない赤ん坊を揺らしながらサンジはこっそりと肩を落とした。
「そうなると、チビゾロが懐くのも当然サンジ君でしょ。チビゾロは子供だしゾロの子どもだから、このサンジ君が自分たちを育ててくれていた未来のサンジ君よりも若い事に気付かない」
「おい、今さりげなく気分悪ィこと言ったか」
「事実に基づいた仮定しか口にしてない」
さすがナミさん、聡明な推理!と普段のサンジならくねくねしたい所なのだが、己の母親っぷりがその推理の根底にあると思うと居た堪れない。それに、ゾロの額にどんどん青筋が浮かんでいくのも。
(もういい、馬鹿馬鹿しい、とか言って出てってくれ)
そうでないといろんな意味で泣きそうだった。だが、ゾロは珍しく声を荒げて机を叩く。
「五年先だろうが十年先だろうが、おれァガキなんざつくんねェんだよ!」
その言葉の内容の意味も分かるまいが、その存在を否定された赤ん坊は一気に泣き声を強くした。サンジがいくらなだめすかしても止まらない。やがて二歳児までプルプルしだして、そしてサンジは切れた。光の速さに近かったんじゃないかというくらいのスピードでゾロのこめかみを蹴り飛ばした。
「だったらてめェの刀でその無用のチンコちょん切って大人しくしてろ、クソ剣士!ガキが泣いてんだろうが!!」
ダイニングの壁に激突して勢いを止めたゾロがうなり声をあげてサンジを睨み上げた。しかし赤ん坊と幼児の泣き声が支配するこのカオスでさらに乱闘まで繰り広げる訳にはいかないし、湯は沸かないしで。
サンジが静かに俯いて目を閉じ、肺の中の空気をすべて吐き出し、そしてナミをみた。あまりにも真剣で辛そうな表情に、思わず全員が黙り込む。偶然だろうが一瞬赤ん坊まで黙った。
「……ナミさん、お湯が沸いたら火を止めてくれるか?これだけ泣き止まねェのも珍しい。もしかしたらおむつも汚れてるかもしれねェ」
「わ、判ったわ、この子も見ててあげるから」
「ありがとナミさん」
しゃがみ込んで幼児の目線に合わせて、すぐ戻るな、と告げるとサンジは足早にダイニングを出て行った。
「できたお母さんね」
「本当に。駄目なお父さんと違って」
「誰がだめなお父さんだ!!」
まだぎゃあぎゃあやっているダイニングの扉を閉めて脱衣所へと向かっていったサンジを目撃したウソップは、のちにこう語る。
「泣き止まない赤ん坊を、何やら意を決したような辛そうな顔で便所に連れて行くからよ、もしかしたら育児ノイローゼでサンジやべえんじゃ、と思って出てくるの待ってたんだよ。そしたら出てきた赤ん坊はご機嫌にキャッキャしてるし、サンジは魂吸われたような顔してるし、いったい何があったんだかなぁ……」
吸われたのは魂だけではないかもしれないが、サンジの口から何があったか語られる事はおそらく、ない。
男の子として何か大切なものを失ってしまったような気がするのを必死で考えないようにしながら、サンジはダイニングに戻ってきた。すぐにサンジの足にしがみ付いてくる二歳児の頭を撫でてやり、そこに残っていたのが麗しいレディ二人だけだったことに内心安堵に胸をなでおろしながら何気ない風を装い尋ねる。
「種無し剣士は?」
「さあ?自分があの子たちの父親かもしれない可能性について思いを馳せに行ったんじゃない?」
「あんだけ否定してたのに……?」
眉間に皺をよせ先ほどの怒鳴り声を思い出す。ゾロが真剣に声を荒げるのは滅多にない事だ。なのにロビンは普段通りのアルカイックスマイル、ナミは対照的に呆れて物も言えないような白け顔だ。
「種無しじゃなく、かつ、プチ剣士さんたちが未来の自分の息子であるという考え方について一つ可能性の話をしたら、難しい顔をして出ていったわ」
ロビンが涼しい顔で「種無し」なんていうのが何だかうっかりゾロが可哀想になってしまいつつ、その可能性という言葉が耳に残る。ゾロが考え込んで出て行ったと言う事は、ゾロの信念を曲げず、かつ、子供ができるかもしれない可能性と言う事だ。
「娼館で「あのロロノア・ゾロの精液!」とか言って冷凍保存されて売られちゃうとか?」
「それも可能性の一つね」
茶を飲み終わったロビンとナミが立ち上がると、行っちゃうのー?といつも通り追いすがったが、一応、この現象についてまだ調べたい事があると言われればこれ以上引き留める訳にもいかない。それに、せっかくナミが赤ん坊のミルクの為に火を止めてくれたお湯の使い道が無くなった理由も説明できない。
(自分の分の紅茶でも入れよう……)
自分にも考える時間が必要だ。ここ数日は慌ただしくてゆっくり考える時間も取れなかった。湯は少し時間を置いたのが功を奏して紅茶には適温。ポットの中で茶葉が踊るのを見ながら、焼いてルフィに盗られないように缶の中に隠しておいた小さなビスケットを二歳児に食わせてやる。赤ん坊はおむつも替えてもらって腹もいっぱいで腕の中で眠っているので、ダイニングは途端に静かになった。
うまうまと小さな手でビスケットをもって小さな白い歯でそれを咀嚼する子供を見ながら、サンジは赤ん坊を抱き直す。
未来から来たゾロの息子達という可能性について考える。とにかくゾロと子供たちが無関係と言う事はもはやこの瓜二つっぷりだ、あり得ない。当初考えていた「どこかの子供が飛ばされてきた説」は完全にその説ごと飛んで行った。かといって、ロビンとナミが言う様に二人が未来のゾロの息子だという説に、サンジはいまいち納得がいっていない。
ナミのいう事はいちいちもっともだ。“万が一”、ゾロが子供を船に連れ込むことになったとしても、あれやこれやとゾロの子供を世話するのはおそらく自分だろう。何しろ酔っぱらった頭だったとはいえ、自分が育ててやってもいいと考えたくらいだ。けれど、口にしてはいないがそれに対する反証が一つあった。
子供たち三人が未来のゾロに育児放棄されていると仮定したにしても、彼らは一様にゾロに無関心すぎるのだ。自分が親代わりになって育ててやっていたにしても、おそらく父親であるゾロについて意識をしない筈がないだろう。特に六歳児、あれはもう物心がついている。そして何より、剣をふるう。親子関係を抜きにしたって三本も帯刀している男が気にならない筈がない。
父親として認めていないからだと考えれば納得しかけるが、あんな風に天真爛漫に笑う子供が、あんなにきれいに人を無視できるものだろうか。どこか不自然さが出てもいいはずなのに、まるで「いないもの」みたいにしている。
「……ふぅ」
考え事をしながらでも手は勝手に動いて紅茶をカップに注ぐ。琥珀色の水面が静かに揺れサンジの顔を反射した。眉間に皺が寄っているのに気付いて、いかんいかんと意識的に表情を弛緩させる。
眉間に皺と言えばあの男だ。子供について完全に我関せずを通しているくせに、ここ数日ずっと眉間に皺を寄せている。それどころか、なんというか、どんどんサンジの「ゾロ像」が崩れていってさえいるような気がしているのだ。
なにしろ、普段はあんなに落ち着き払ったふてぶてしかった男が、落ち着きはなくなるし癇癪持ちみたいに怒鳴るし。一生持つことは無いと思っていた自分の顔にそっくりな子供が急に現れて動揺しない人間はいないだろうが、それだってあんな、泣く赤ん坊の前で大声を上げる分別のない男だとは思わなかった。一言で言うと大人げが無くなったというのが一番しっくりくる。
幻滅したと言えるほどゾロに甲斐性を期待していたつもりはないが、何か違和感を感じるのだ。
「かーたん、たべたー」
「おー、良く食べたな。うまかったか」
「うん!」
口の周りを拭ってやっていると、ダイニングのドアが元気いっぱい開いた。
「ドアは静かに開けろ、チビ」
「はーい!サンジ、なんか飲みたい!」
そいつばっかずるいぞ、と明らかに何か食べていた様子の二歳児に文句を言いながら冷蔵庫の所まで走ってサンジを待ち受ける。この中にキンキンに冷えたレモネードがあることは彼は学習済みだ。はいはい、と笑って立ち上がる。レモンを飾切りにして入れてやって、ついでに自分の紅茶もレモンティにしよう。
「チビ、ちょっと待ってろよ。あーこらこらチビ。きたねえ手で冷蔵庫に触るな、そこの流しで手ェ洗え」
「どっちもチビじゃわかんねェよサンジ」
「おれにとっちゃどっちもチビだからなァ」
確かにここまで数が増えると思わなかったので、呼び分けができていない。一人がミニマリモ、一人がチビマリモ、一人がプチマリモでどうだろう。そんな事を考えながら涼しげなグラスにレモネードを注いでやる。
レモンを飾ったそれを一気飲みする様を眺めながら紅茶にスライスレモンを浮べると、「うまかった!」と元気いっぱいにグラスが戻ってくる。
「そんな一気に飲んだら腹壊すぞ?」
「うー、そうだなあ……おれの腹巻きどこいったんだろ……」
「腹巻?親父のまねか?」
やはり蛙の子は蛙かと笑いながらグラスを受け取ると、ミニマリモ(仮)がきょとんと首をかしげる。
「おやじ? おれのおやじも腹巻してるのか?」
その問いかけにサンジは髪に隠れた方の片眉を持ち上げる。カマをかけたつもりはなかったが、彼は本気で不思議そうに尋ねてくるのだ。父親は誰だと尋ねて、知らないと答えた事はどうやら本気だったらしい。ううん、と唸って苦笑いで誤魔化す。
「あー、おやじ候補っつーか可能性っつーか……お前の父親は、海賊狩りのゾロっつークサレ腹巻かもしんねェってさっきナミさんたちと話してたんだ」
ふうん、とさっそく冷えてきたらしい腹を摩りながら、彼は呟く。
「おやじもゾロって名前なのか」
特に何の感慨もなくそう言った彼は、また「しゅぎょう」してくる、と生意気にも腰に下げた木刀の柄と思しき場所に手をやりながら駆けて行く。どく、どく、と急に激しい動揺に心臓が早鐘を打つのに、胸に抱いた赤ん坊が気付いたのか、うっすらと閉じられた目が開く。それでも、サンジは恐る恐る立ち去ろうとする小さな背中に声をかけた。
「おい、……ロロノア・ゾロ」
耳覚えのない音ならどうか無視してくれていい、そんな程度の小さな声でサンジはつぶやいた。しかし無情にも、歩幅の小さな子供はそう遠くには行っておらず、足を止めて振り返った。
「何だ?サンジ!」
「……、っ、……ごちそうさまでした、は?」
「おう、ごちそうさまでした!」
叫びそうになるのを懸命にこらえそういうと、ぺこりと大きく一礼をして彼は、――ロロノア・ゾロは、ダイニングから出て行った。そして、二歳児が不思議そうに首をかしげている。
「かーたん、なに?」
「……!! い、いや、なんでもねェ、よ、……ゾロ」
「ん」
(なんてこった……やっぱり、未来からきた子供じゃねェ……)
――こいつら、全員がロロノア・ゾロだ。
なんでだ、と考えたってサンジはコックであり生物学者ではないので藻類の生態には明るくない。まさか単細胞すぎて分裂までするとは考えてもみなかった。恐れ入る。
学者じゃないサンジにできる事は子供の世話をしながらうまい晩飯を作ってやる事くらいだった。ナミとロビンにも自分の考えを伝えたかったが、結局考えもまとまらなかった。案外ロビンとナミが言う様に未来から来た子供たちで、面倒くさがってみんな同じ顔だし「ゾロ」でいいじゃんと命名主が手を抜いた可能性だってまだ残っている。
グランドラインだから、で説明が済んでしまう不思議な事象に一つ一つ可能性を上げていってもきりがない。今日はもう疲れたし、子守りのあるサンジは見張り番を免除されているので今日はさっさと寝てしまおうと片づけと仕込みを早めに終わらせた。
ダイニングのゆりかごにいた赤ん坊以外の「ゾロ」は男部屋ですでに眠りについている。元からいた大人のゾロもだ。揺り籠ごと赤ん坊を運び込んでソファに横になると、自然と六歳児ゾロと十九歳ゾロを見比べてしまう。大の字になって床に転がっている二人の違う所など、大きさくらいのものだ。いくら親子だってここまでは似ない。
「……う……ぐ……」
「……ゾロ……?」
不意にゾロが、大人のやつがうめき声を上げた。わりと鼾の煩い男ではあるが、寝ながらこんな苦しげなうめき声をあげる所など初めて聞いた。何か悪い夢でも見ているのだろうか。
普段だったらうるせえな、で済ませてしまうはずが、どうも気分的にオカンモードになってしまっているようで、放っておくことができずに上半身を起こした。もう少しうなされる様なら起こしてやろうと様子をうかがっていたら、額に汗を浮かべたゾロの全身が淡い光を帯びだした。
(な……なんだ……?光合成か!)
夜に光合成も何もあるまいが、発光するゾロを見ながらやはりこの男を人間と認識するのは間違っていたのだと確信を深めつつ、ハンモックに眠るゾロから零れ落ちる光を凝視する。
光はただゾロから発されているだけではなく、ハンモックの隙間から滴の様に落ちて、床下へと溜まってゆくのだ。それがある程度の量溜まると、次はそれがもぞもぞと動き、固まり、まとまりだす。
(気持ちわる!!なんだこれ!!)
あわあわとしていたら、ゾロ本体の発光は止まり、そして落ちていた塊もやがて光を失った。残ったのは――齢13か14くらいの、どう見ても、ロロノア・ゾロ(小)であった。
(てめェが産んでたんじゃねェか!!!)
未来もへったくれもない、やっぱりこの男の分身だった。あまりの驚愕に動けずにいると、ハンモックの下に横たわっていた生まれたばかりの少年ゾロが、寝ぼけてベッドから落ちたみたいな風情で目を擦りながら体を起こす。そのまま寝ぼけ眼できょろきょろと辺りを見回し、口を開けたまま呆然としているサンジの金髪を暗闇の中で発見すると、モゾモゾと這ってその傍に近寄り、ソファに凭れ掛かるようにしてまた眠ってしまった。
「は……ハハハ……」
笑うしかなかったのでサンジが笑っていると、男部屋のドアが開いた。死んだ魚のような目でそちらを見ると、今日は見張り番だったはずのウソップがそっとやってきてごそごそとやっている。今夜は冷えるので、毛布の余分を一枚拝借に来たらしい。
サンジが起きていた事に気がついて、彼は、おお、と事も無げに片手を上げ小声で尋ねる。
「よお、サンジ。四人目か?」
精が出ますね、みたいに言われてサンジは大声を上げかける。冗談じゃねえ、これを産んだのはあのクソ剣士だぞ、と。しかし、自分の周りですやすやと眠っている子供たち四人を起こしてはならぬとサンジの中に芽生えてしまったオカン細胞がサンジの喉を締め付けた。
黙ったままのサンジに特に気を害した様子もなく、ウソップは余った毛布を二枚手に持って一つは先ほど発生したばかりの少年ゾロにかけ、もう一枚を自分で持って静かに梯子を上っていく。
ゾロなんかよりよっぽどいいお父さんになりそうだ。サンジはウソップが開けた床扉から僅かに差し込んだ月明りに照らされた子供たちの顔を見る。
これは、ロロノア・ゾロの子供時代なのだ。生まれたばかりのゾロ。立ち、喋ることを覚えたばかりのゾロ。箸の使い方や剣の振り方を覚え始めたゾロ。そして――親友の志を受け継いで、海を目指す前後のゾロ。
やがてぱたんと扉が閉まって、月明りに慣れた目が再びの暗闇に全ての輪郭を失った。眼を開けても閉じても変わらぬ暗闇にサンジは片手で額を抑える。
「このままいくと次あたりゾロと同い年が生まれんじゃねえか……?」
そしてそのゾロは、自分を母親だと思って接してくるのだ。呟いた内容があまりにも自分にとって迷惑極まりない内容だったので、サンジは考えなかったことにしてそのまま眠りに落ちた。半分気絶したみたいな落ち方だった。
「サンジ、喉乾いた」
ぎく、とサンジの身体が強張る。生まれてきたばかりの若ゾロは他のゾロ達に比べてサンジに過剰にベタついたりはしなかったが、それでも普段のゾロと比べれば格段に距離が近い。何より名前を呼ぶ。それがサンジの教育の賜物であるところがまた、笑うしかない。
「……水、お茶、レモネード」
「レモンのがいい」
六歳児のゾロに飲ませていたからだろうか、歳を聞いたら怪訝そうに十四だと答えたゾロもまたレモネードを好んだ。普通のゾロならあの三択だったら茶を選ぶことの方が多い。
ちょっと待ってろ、とグラスにレモネードを注いでいる間何とはなしに十四歳ゾロの姿を目に入れ、思わずグラスを落としかけた。腰に、あの白塗りの鞘の刀を下げている。あれはたしか、ゾロの親友の。
「……おい、……その、……その刀」
「……?和道の事か?」
この14歳が発生した時には、当然ながらその身一つだった(どういう原理か服は着ていたが)。と言う事は、これはもともと大人ゾロが持っていたものに違いない。あの男が子供相手に心を許すことなど考えられないし、ましてや心を多少許したとしてもあの刀を、あの刀だけは手放したりするはずがない。
「黙って持って来たのか?」
「馬鹿言うな!これはちゃんと譲り受けたんだ。師匠……くいなの父親に」
そうじゃなくて、とサンジは困った様に言葉を探す。ゾロはレモネードを飲み干して、変なサンジだな、と首をかしげて、ごちそうさまでしたと丁寧に手を合わせてからまた修行だと戻っていった。
あの刀の真の持ち主は一体何をやってんだ。もうおやつの時間も過ぎている。せっかく今日はゾロが――ゾロ達が好きそうな、本物のわらび粉ではないが片栗やコーンスターチをちょっと工夫してわらびもちっぽいものを作ったのに。子供たちは喜んで食べた。14歳ももちろん喜んで、箸で綺麗に食べた。
なのに、大人ゾロだけがアレを食べていない。おやつにすぐに顔を出さない事だって、前はままあったが最近ではほとんどなかったのに、今日は顔を出さなかった。妙に不安でサンジは落ち着かない様子で赤ん坊を抱いたまま無意味に視線を巡らせる。
「……あ」
ガチャ、と音を立ててドアが開いた。寝起きっぽいゾロが普段よりもだらしない、なんだかぼうっとした様子でダイニングに入ってきたのだ。当然の様に白鞘の刀を、帯びていない。
「……ようやくお目覚めか?寝てる間にてめェの大事な……」
バターン、と大きな音を立て乱暴に扉を閉じて返事をしない。腹を掻きながら何かを探す様に辺りを見回している。刀を探しているのだろうか、それにしては動作がゆっくりすぎる。
「おい、クソマリモ!」
ぎく、とゾロがサンジを見た。さっきよばれた事には気づいていなかったみたいな顔だ。寝起きだからってこんな全身で油断しているこの男を見た事がなかった。和同一文字を無くして動揺しているならもっと怒りを露わにしているはずだ。
船中を探し回って、サンジに「おれの刀を知らねえか」くらい聞いてもよさそうなもんだ。普段のゾロならサンジを疑う様な事くらいしてもおかしくない。想像するだけでイラッとするが、こんな腑抜けよりよっぽどマシなはずだ。
「……あ?」
「何を、捜してんだ?」
「いや、……腹減ったからよ。なんか食うもんねえかと」
(刀がない事に気付いてねェのか?んなアホな……)
肌身離さず持っているあの刀を、この男が。なんなんだこの顔は。まるで別人だ。サンジは眠った赤ん坊を揺り籠に寝かせると、取っておいたわらび餅と温かいお茶を机の上に置いてやる。ゾロもボケッとしたまま席についた。
しかし腹が減ったというわりには握り箸でイミテーションわらび餅をつついている。行儀が悪い。まったく、14歳を見習ってほしいくらいのマナーの悪さ――
「……あ」
イライラしながら自分で考えたことに、サンジは思わず声を上げた。ゾロのテーブルマナーがもともと模範的だったとまでは言わないが、箸の使い方は別に問題がある方ではなかった。こんな風に食べ物で遊んだりすることだってもちろんなかった。
ここ数日ずっとゾロの様子がおかしいと思っていたのだ。大人げなく子供に張り合う。癇癪を起こして大声を上げる。サンジに変な喧嘩の売り方をする。食べ物をうまく食べない。挙句刀が無くなっても頓着しない。
「なあ、おい、ゾロ」
「なに?」
部屋の隅でウソップが作ってくれた積み木で遊んでいた二歳児が返事をした。しかし、サンジが呼んだのは彼ではない。大人の、剣士の、いけ好かない方の、そして、サンジの心を鷲掴みにしたはずの。
「返事をしやがれ、ゾロ!」
二歳児が驚いて固まった気配がした。けれどサンジはバンと机を叩いてぼんやりしているゾロをまっすぐと見つめる。ゾロは大きな声に驚きこそしたような顔をしているが。返事を、しない。
くしゃり、とサンジは顔を歪めた。
(かけらだ。ガキ達はゾロからこぼれたかけらなんだ。ゾロの過去がそのまま、ゾロから抜け出していってる)
19歳という若さであれだけ老成した雰囲気を持つまでに至った、海賊狩り、ロロノア・ゾロ。きっとサンジの想像しえない壮絶な人生を送ってきたに違いない男。箸の持ち方とか、刀の大切さとか、心に秘めているはずの大切な誓いとか、自分がロロノア・ゾロであることとか、世界一を目指した経緯とか、そう言ったものが全部、全部。
「しっかりしろ!!このままじゃてめェ空っぽになっちまうぞ……!」
ゾロの胸ぐらを掴んで揺らす。ゾロは、わけがわからん、みたいな顔をしてサンジを見ている。こんなことをされて黙っている男ではなかったはずだ。このままでは、ゾロがゾロでなくなってしまう。
「クソったれ、目ェ、覚ましやがれ!!」
半泣きになりながら掴んだ胸倉から手を離し、拳を振り上げた。我を失っていたのかもしれない。ゾロの横っ面を殴り飛ばそうとしたその手を止めたのは、殴られそうになったゾロ本人だった。反射的なものかと思ったサンジだったが、ゾロはその手を掴んだままぽつりと言う。
「……コックは、手を使わねェんだろ」
「……っ!」
ボーっとしているくせに、自分がロロノア・ゾロだと言う事すらあいまいになってきている腑抜けのくせに、そんな事を言う。
そうだ。今生まれている子ゾロの最年長は十四歳。十五歳から今までの四年間分はまだゾロの中に残っている。つまり、サンジと出会ってからの事はまだゾロの中にすべて残っているのだ。
「……鷹の目、わかるか」
「当たり前だろ。おれは、あいつを倒して……あー……、倒して……なんかになる」
「ルフィに誓ったろ?」
「おう。もう誰にも負けねえって誓ったな」
「てめェが真っ先に死ぬタイプだって言ったおれに、お前は「命なんて等に捨ててる」なんてカッコつけて言いやがった。それは、お前がなんだからだ?」
ほとんど誘導尋問みたいな言い方だった。けれどゾロは難しいクイズを突きつけられたみたいに眉間に皺を寄せる。ひどい頭痛に苛まれているみたいに眉間に皺を寄せ、掴んだサンジの手首を握りしめる。
痛みがないわけではない。けれど、サンジはその手を振り払わなかった。
「おれの手を握ってるその手は、本当は何を握ってなきゃいけねェ手だ?」
ゾロは初めて自分がずっとサンジの手を握りしめていたことに気付いたような顔をして、そっと手を離し、掌を見る。剣ダコだらけの手。
「……おれは……」
「てめェは、なんだ。ゾロ」
「剣士だ。世界最強に、なる、剣士だ」
よし、とサンジはゾロの後頭部を掻き毟る様に撫でてやる。
どうやら「過去が抜けている」という状態で過去を思い出すことは著しい精神疲労を起こすらしい。額に脂汗を浮べたゾロはテーブルに片手を、サンジの肩にもう片方の手をついてなんとか立っている。随分きつそうだ。
しかし思い出したところで、また次のゾロが生まれてしまえばこの努力も水の泡だ。早々に手を打たねばならぬ。ロビンとナミに相談しなければ、とサンジは次の手を打つべく顔を上げた。
「とりあえず刀を返してもらおうぜ。あれはてめェ以外が持ってていいもんじゃねェ」
例えあの14歳がゾロ本人だったとしてもだ。ゾロが頷いたのを確認すると、ゾロを椅子に座らせようと身体ごとゾロに押し付けて椅子の方へ通してやる。だが、ゾロの両手が予想外の動きをした。机についていた手をサンジの背中にまわしてきたのだ。
「おい……?」
倒れそうになった体を反射的に支えるための動きかと思ったが、押し返そうとしてもびくともしない。腑抜けていたとしても筋力が失われたわけではない男の腕は痛いほどサンジの身体を抱きしめて離さない。何をしてる、と問いかける前に逆にゾロからの質問を受けた。
「……なんでそんなに必死になってる。てめェはおれが嫌いで、そんで、ガキは……ガキのおれはてめェに懐いて、てめェも楽しそうに世話してる。今のおれより、ガキの方が、てめェにとっちゃ」
「おい、無理して喋んな」
そんな事を聞いてなんになるのかとサンジは顔を顰めるが、ゾロは辛そうな顔のまましっかりとサンジの顔を見据え、身体を抱きしめて離さない。答えるまで解放してもらえなさそうな雰囲気で、サンジは気まずげに片目を顰めた。
「てめェがそんな風になっちまったのは、おれのせいかもしれねェからだ」
「なんだと?」
「あの夜、おれがてめェのガキがどんな風か、って言ったからかもしれねェだろ?てめェのやらかしたかもしれねェことはてめェでケツ拭く。それだけだ。判ったら離せ、モタモタしてたら……」
本当は頭の中ではもっと酷い事を考えていたのだが、それはさすがに言えない。ぐい、と腕を突っぱねてゾロの身体を押し退けようとして、サンジはそれに見事に失敗した。ゾロがサンジの顔に噛みついたからだ。
「もがーっ!?」
顔というか、正確には唇を上下に縫い付ける様に噛みつかれた。ゾロの口の中でアヒル口を強制的にさせられているサンジは混乱しながら一体これはなんの嫌がらせかとゾロの腕の中で必死で暴れまわる。痛い。
どん、どん、と横から腰に膝を入れているのだがびくともしない。それどころかゾロの舌がぬる、と唇の隙間から入ってきて、これは、何か、もしかして、キスという物をされているのではないかとサンジは思い至り身を慄かせた。
(な、何やってんだこいつ……!?)
さっきまで随分と弱っていたはずの男に口の中を舌で犯され、混乱の極みにいるサンジは何度も悲鳴じみたうめき声を漏らしたが、全部ゾロの口の中へと吸い取られてゆく。
「んー!!んー!!!」
ぬる、と舌がようやく出て行ったと思った頃には酸欠のような状態でサンジの膝は笑っていた。な、あが、あばば、と意味の分からない音だけが口から漏れ、震える唇の端から涎が垂れてしまい慌てて手の甲とスーツの袖で唇を拭きまくる。
「い、意味わかんねェよ!なんだよ今の!」
「なんか、……ムカついた」
「嫌がらせか!?嫌がらせだな、よし判った、歯ァ喰いしばれ!!」
笑う膝を叱咤して三歩分の距離を取り、トントンと爪先で地面をける。スリーツーワンで顔面蹴り倒してやるつもりだったのに、ツーのあたりでゾロが忌々しげに口を開く。
「てめェはそうやっていっつもいっつも自分のせいにしやがるし自分ばっかり犠牲にしやがるからずっとムカついてたんだよ!ガキが見てみてェっつったくらいでガキがポコポコ生まれてたらこの世は人間で溢れてっだろ!」
「ぽ、ポコポコ産んでたのはてめェだろうがボケェ!だいたいそれが理由で、き、きききキスとか、お前、アホかァ!?」
「うるせェ!ガキが現れ出してからこっち、全然抑えが利かねェんだよ!」
それはサンジも感じていた事だ。ゾロらしくない怒り方やふるまい。長い時間をかけて養ってきたゾロの理性とかそう言ったものも、全部子供たちに分散されているのだろう――だからってなんでキスだ。
「ぜんっぜん納得いかねェ……!」
「かーたん、……どうしたの?」
怒鳴ったり暴れたりするサンジの傍に、ゾロの傍をすっと通りすぎて二歳児が近寄ってくる。どうしたもこうしたもお母さんはお父さんと……いやいや、このゴクツブシと大喧嘩をしているんじゃないか。見ればわかるだろうに、と首を傾げかけてサンジは俯く。
考えてみれば、不自然なのは子供がゾロを無視することだけじゃない。子供同士の接触が一切なかったのではないか。年上が年下について何か言及する事は稀にあったが、逆が一切なかったように思う。
これは、無視をしているのではなく――
「なァ、チビ。そこのおじちゃんについてどう思う?」
「誰がおじちゃんだ!」
「……なんのこと?」
「そこに突っ立ってる緑の、おっさん」
半ば確信を持って尋ねるが、予想通り二歳児は困った様にサンジの顔とサンジが指差す方向に視線を往復させている。
「視えてねェ」
「んだと……?」
そう言うゾロにはしっかり子供ゾロが見えている。怪訝そうな顔をしたゾロはゆっくりと歩み寄り、きょとんとしている二歳児の頭に手を置いてみる。
「おい……」
その瞬間だった。サンジが昨日見た、光の粒みたいなものが二人の間を取り巻き始める。え、とサンジが声を上げる間もなく、ゾロが、小さい方のゾロが、消えた。
「……ッ!?」
息を飲んでサンジが辺りを見回す。取り乱していったと言ってもいい、慌てて視線を巡らせるが子供の姿はどこにもなかった。サッと血の気が引いてゾロの顔を見るが、ゾロは子供に触れた手をじっと見ている。
「待て、慌てんな。……多分、戻ってきた」
「何……?」
何度も手を握っては開いている様子のゾロは、さっきよりずいぶんとマシそうな顔をしている。分裂した個体が元に戻るのは、触るだけで十分だったと言う事か。
「そう、か、下手にオリジナルのゾロに触れて消えちまわねェように、てめェの事が見えてなかったってことか……」
どういう仕組みかはわからないがゾロの過去がすべてなくなってしまう前に気付けてよかった。ほっとした事と、子供が突然いなくなったことによる虚脱感にサンジはへなへなと椅子に座る。その様子を見ていたゾロが眉間に皺を寄せた。
「……いいのか。このままあと三人戻しちまって」
「いいもクソもねェだろ……もともとありゃ、てめェだ」
馬鹿な事を聞く、とサンジは胸ポケットから煙草を取り出して口に銜えた。火をつけずに煙草を上下に揺らし、笑おうと口角を上げてみせる。
「なんつーか、アレだな、大体そろそろ子育てノイローゼかってくれェ疲れてたしよ、これ以上増えられても飯の心配もあるしよ、もともとほら、おれぁコックだからな、子育てなんか向いてねェし?大体アレてめェだぜてめェ!赤ん坊のころから目つき悪ィし可愛げもねェし、ベタベタまとわりついてうっとおしいし、だから、別に、おれは」
「もう、いい。喋んな」
息切れするくらいにペラペラ喋っていたが、言葉に詰まったサンジの髪をゾロの大きな手がかき回す。言われるがままにサンジは黙り込み、俯いて、テーブルに肘をついて顔を片手で覆う。
「……あとの三人はてめェのいねェとこで」
「馬鹿言え!……ちゃんと見届けさせろ。これでもおれは奴らの親代わりだったんだ」
あれだけこき下ろした口でそう言うサンジは顔を上げようとしないまま、出ていこうと一歩踏み出したゾロの背中に言う。ふう、とため息をついてゾロはキッチンの壁に凭れ掛かった。
「じゃあお前が呼べ。多分おれが呼んでも聞こえねェだろう」
判った、とサンジが立ち上がる前にダイニングのドアが開いて二人同時に目をやる。つい先日生まれたばかりの14歳だ。やはり並ぶともう一回り小さいだけのゾロそのものだ。
「さっきから大声あげてるけど大丈夫か?サンジ」
おそらくゾロの一番大事な時期がつまっている。親友との誓い。真剣で人を斬る事。色々なことを乗り越えている最中のゾロだ。おいでおいで、と片手を拱くと彼は素直にサンジの元へやってきた。今のゾロだったら考えられないくらい素直で、思わず笑ってしまう。
「何だ?何か手伝いか?」
「ん、……なんでもねェよ。ただ、言っときたい事があったんだ」
座ったままのサンジに歩み寄った少年ゾロが小首をかしげる。少年らしい仕草だ。このまま育っても自分といがみ合っているゾロに成長するのだろうか。ちょっと考えられない。
ふ、と笑いながら両手を外から包み込んで顔を引き寄せると、肩に額を乗せる。彼は甘えるような仕草のサンジにあわせて屈み、どうした、と尋ねるが、サンジは首を左右に振って額を摺り寄せた。そして、後ろに近寄る大人ゾロには聞こえないようにそっと呟く。
「お前さ、絶対なれよ。大剣豪」
きょとんとした顔になるが、彼はすぐに笑って頷いた。
大人の方にはきっと言うことは無いだろうから、伝えておきたかった。返事に何かを言おうとした少年の気配にサンジが顔を上げた瞬間、大人ゾロがのばした掌が少年ゾロの背中に触れ、ぱっとサンジの目の前の少年が霧散する。
「……ッ」
彼が腰に下げていた白鞘の刀が床に落ちかけて、サンジが慌てて両手でキャッチする。唾がカタカタ鳴るのは、これが重いせいだ。刀の向こうの大人ゾロの足元だけ見ているサンジから刀を受け取ったゾロは、ダイニングにやってきた時と違って随分と元のゾロに戻ってきている。発する気配が違うというのだろうか、存在感が増した。
「あと二人」
「……おう」
のろのろと顔を上げて今度こそサンジが立ち上がる。ダイニングのドアから顔を出して、作ってもらった木刀を振り回していた六歳児がそれに気づいてすぐに駆け寄ってきた。
「サンジ、なんだー?」
「ん、ちょっとおれと話しようぜ」
「する!」
素直に返事をする六歳児にゾロが苦虫を噛み潰したような顔をする。知らないガキだと思っていた頃と違い、これが幼少時代の自分だと理解している以上それは勿論気まずかろう。だが少しの間くらいは我慢してもらう事にして、サンジは長い両足を折り曲げてしゃがみ、六歳児と同じ目線になる。
「いいか?」
大人ゾロに聞かせる気はないので、静かに、内緒話をするみたいに声を潜めると、六歳児も耳を傾ける。
「うん」
「よーく聞けよ。お前は大人になったらな、スゲーかっこいい男になるぞ」
「ほんとか?」
「ああ、おれが保証する」
センスはスゲーだせェけどな、と思ったけれど、そこはあえて伝えなかった。六歳児には残酷すぎる。
「ただしそのためには条件があるぜ」
「じょーけんってなんだ?」
「守らなきゃいけない約束だ」
約束か、と彼は目を輝かせた。このころから約束という言葉に重きを置いていたのかと自然と笑みが浮かぼうとするのを引き締め、いかにも大事なことを伝えるみたいに真顔を作る。
「おれが教えた事を、ちゃんと守る事」
「サンジが教えてくれたこと……」
どれの事だろう、と不安そうにする彼の肩に両手を置いて、一つ一つ尋ねる。
「飯の前は?」
「手を洗って、いただきます」
「食ったら?」
「ごちそうさま」
「箸の持ち方は覚えてるか?」
「おう!」
大きい声を出してしまい辺りをきょろきょろと見回すが、誰もいなくてほっとした様子を見せる。本当は大人ゾロがいるのだが。サンジは顔を上げて大人ゾロと目を合わせる。もういいか、という目だ。頷く。もう、大丈夫だ。
「えらいぞ」
さらりと六歳児の頭をなでると、立ち上がる。にー、と笑って六歳児がサンジの顔を見上げた。その頭に後から大人ゾロが触れると、ふわりと彼が消えて、伸ばしたゾロの手は空を薙いだ。
「……もう、何ともねェ。赤ん坊くらいは残しといても」
「馬鹿言うんじゃねェ。どんな弊害があるかもわかんねェだろ」
揺り籠に寝かせていた赤子の元に歩み寄ると、ウソップが作ってくれたおくるみごと抱き上げる。すやすやとよく眠って居た赤ん坊はその振動で青い血管の透ける薄い瞼を開けた。眠っている所を起こされると不機嫌になる赤ん坊だが、サンジがそうした時はその限りではない。ぱちぱちと瞬きをしてサンジの顔を見上げてふくふくでぱんぱんの手を伸ばしてくる。
「……最後まで、やるんだ」
指を差し出すと小さな手が握ろうと緩く曲がるのを見下ろして、サンジはとうとう顔を歪める。グッと眉間に皺を寄せて、それでも、最後に見せるのは笑顔であろうと頬の筋肉を意識的に上げ、唇を震わせた。
「母親代わりなんてとずっと嫌がってたけどよ、全身全霊で懐かれて嬉しかったし、こいつらを守るためならきっと何でもできた」
「……そうか」
「おまえさ、やっぱガキ作れよ。てめェみてェなクソ野郎に惚れる女がいるかどうかはわかんねェがよ、寂しく一人で死んでくなんてアレだろ?ほら、船にいっしょに乗ればおれがわりと子育て出来そうだったしよ、賑やかなのはルフィも、喜ぶし、さ」
笑いながらはたはたと涙をこぼすサンジに返事をしないままゾロが歩み寄る。指を揺らしてあやしてやると、あー、と声を上げて赤ん坊が笑う。そして。
「じゃあ、な」
ふわ、と赤ん坊を包んでいた布がサンジの手の中を滑り、床に落ちた。
子供たちはどうやら来た場所に帰ったみたいだ、と説明したサンジにクルーは各々残念だと声を上げ、ルフィなど寂しがってナミに「ちょっと子供産んでくれよ」などと言いナミとサンジからそれぞれキツイおしおきの一発を受けた。
船の異常は日常に戻り、ようやく到着した島に停泊中。子守りで大変だったサンジは一日目は疲れをいやすためにと留守番を申し付けられ、ええっ、と不満を申し立てる前に「ゾロ置いてってあげるから!」と全く嬉しくないおまけをつけられ、追いすがるように手を伸ばしたまま十分弱固まっていた。
「いつまで固まってんだ」
「るせェ!それこそ疲れた心と体を癒してもらう為にナミさんとロビンちゅわんと一緒に過ごしたかったのに!!てめェの顔なんざここ数日で一生分見たんだよ!見飽きた!!」
プンスカ怒りながらキッチンに引っ込む。面子が急にどっと増えたせいで食料の在庫はほぼゼロだが、それでも一人か二人分の軽い夕食くらいはできる。明日には買い出しに出してもらえるそうだし、朝食はその時外で取ればいいから使い切ってもいいだろう。
そう判断して調理を開始すると、暇なのかゾロがやってきた。
「んだよ、ガキ産んでる間暫くトレーニングサボってただろうが。呼ぶまで鉄団子振り回してろよ邪魔くせえ」
「……ったく、ガキがいなくなってビービー泣いてやがったくせによ……あん時のお前の可愛げはどこ行ったんだ」
「かわっ……てめェ!!」
包丁を持たまま、ぶっ殺すぞ!と言う気迫で振り返る。声に出せないのは、実際にビービー泣いたし思いっきりゾロのダサいジジシャツに涙と鼻水を擦り付けたからだ。つまり抱きしめられて背中を摩ってもらっていた。ゾロは、声も上げずにしゃくりあげるサンジが泣きやむまでずっと傍にいたのだ。
それに素直に感謝できるサンジではなかったが、撫でてくれた手は温かかった。自分の手も子供たちにそう感じられていたならよかったと思うほどには、心地よかった。
クソ、と悪態を吐いてまた作業台に向き直りニンニクをみじん切りにする。沈黙が居た堪れなくて、サンジは口を開いた。
「その……おれが、ちょっと血迷って言ったセリフは、忘れろ。てめェはガキを作らねェっつったんだ、それはそれで貫きゃいい。まあおれがなんか言ったところで別にてめェは考えを変えたりはしねェだろうけどよ」
「いや。……ここんとこちっと考えてた」
「あん?」
「てめェがそんなに欲しがってんなら、作ってもいいと思ってる」
はァ?とサンジが思いっきり顔を顰めつつ、手際よくご飯を一膳と、ニンニク風味の鰤の照り焼きを出してやる。戻しておいた大豆の炒り煮を小鉢に添えて出すとゾロは両手を合わせた。
「いただきます」
「おいちょっと待て、おれが欲しいから作るってなんだよ。おかしいだろ!てめェあんなに頑なにいらねェって」
「ロビンが、あのガキがおれ本人だって判ってねェ時に、一つの『可能性』ってやつの話をした。おれァソレ聞いて、そんならガキの一人や二人、作るのもいいかと思った」
確か、サンジが赤ん坊に初めて乳をやった日の事だ。思い返せば確かにあれほど「アレは自分の子供ではない」と否定していたゾロが、サンジが席を外している間に考えを改めた様な事をナミが言っていた。自分が彼らの父親である可能性を馳せに行ったとか何とか。
「その可能性ってなんだよ」
サンジはゾロの精子が盗まれて云々と結構えげつない事を考えたが、ゾロが前向きに子供を作っていいと思えるその可能性。口の中のものを嚥下するとゾロは顎をしゃくって不思議そうな顔をしているサンジを示す。
「てめェが産むんだよ」
「はい?」
考えた事もなかった一番えげつない可能性に、サンジは笑顔で首をかしげた。確かに乳は出た。乳は出たが、これ以上何を出せというのか。いまだに理由は判らないし、多分ゾロが分裂した理由もこれからわかることもないだろうが、きっとその影響を受けただけだ。子供など産めるはずがない。
「だいたいてめェは勘違いしてるみてェだし、鳥頭だから忘れてるようだが」
「誰が鳥頭だ!!」
もぐもぐ。うまそうに飯を食いながらなので会話がちょくちょく途切れる。じれったく思いながらサンジは茶を淹れてやりつつゾロの説明を待つと、ゾロは茶を受け取ってからサンジににやりと笑いかける。
「おれァてめェにキスしただろ」
「きっ……ありゃあ、てめェが腑抜けたクソバカになってたからだろ!忘れてたんじゃねェ、忘れようと試みてんだ思い出させんな!」
あんなもんノーカンだノーカン!と怒鳴るが、ゾロはどこ吹く風で茶を啜る。
「理性が利かなかっただけだ。なんなら今からでもしてやる」
「していらねェ!っつか、意味が解らねェ!!理由ってなんだよ!おれが何を勘違いしてたってんだ!?」
「おれがガキはいらねェっつってた理由は、惚れた相手がガキ産める身体じゃねェからだ」
ほ、と唇がOの字を描いたままサンジが固まる。そんな身体の女性もいないではないが、ゾロの目は確実にサンジの下腹部を見ている。ここが膨れ上がる事は常識的に考えてサンジが肥満体になった時くらいだ。そしてそんな日は来ない。どんな日も来ない。ないったらない。
「だが、ロビンが言ったんだ。未来の医学なら男でもガキが産めるかもしれねェってよ」
だったら孕ませねェ手はねェだろ、と話を締めくくって、呆然とするサンジを尻目にゾロはニヤニヤと笑っている。
「だ……誰がてめェなんかのガキなんざ産むかァァァ!!!」
ようやく我に返ったサンジが叫ぶが、ゾロは意外そうに――意外そうな顔をわざとらしく作って、両手を合わせる。
「ごちそうさん。……てめェなんか、とは随分だな」
そして、椅子から立ち上がってサンジのネクタイを引っ張り顔を近づけた。混乱していたサンジはその急な攻撃になすすべなくテーブルに両手をついて引き寄せられてしまう。
「てめェとの約束、守ってるし、おれはぜってぇ大剣豪になる。てめェ好みの『スゲーかっこいい男』だろうが」
そのままぶちゅう、と口付けられてサンジは目を白黒させる。あのささやかな内緒話があの距離にいた男に聞こえていたはずがない。絶対に聞こえないように本当に小さな声で言ったのだ。だとしたら。あの時の言葉は。全部――
「うぎゃあああああああああああああああ!!!」
「うるせェな。とっととてめェも飯食え。そんで、覚悟しとけ」
おれァもういろいろ腹くくった、そう言い残してズカズカと照れたみたいに足音を高く出ていくくせに、サンジが教えたようにドアは静かに閉めて出て行った。口を開いたままぽかーんとしていたサンジに、最大まで開ききった目が乾いてしぱしぱしてきた事でようやく飛んでいた思考が戻ってくる。
きれいに食べつくされて残った空の食器を見ると、豆も一つも落ちていない。そう言えば実に見事な箸捌きであった。茶碗の上だとかコップの中に適当に突っ込まれている事もあった使い終わった箸が、丁寧に揃えておいてある。
「は……ハハハ……」
ゾロが言ったように、子供たちはゾロの中に戻っていっただけなのだ。
姿が見えなくなった今でも、サンジと一緒にいた彼らは、ゾロの中に今でも息衝いている。
「は……あはは…はははは!」
大きな声で笑った。狂ったかと思われるかもしれないがかまうものか。どうせまだ遠くには行っておらず『惚れた相手』の近くにいるだろうから、聞こえる様に大きな、大きな声で笑ってやった。
ゾロと、ゾロの中にいる四人に聞こえるように。
リリース日:2011/12/21~2012/2/17