ナカムラハンゾロウが夢と陰謀の国アメリカにやってきたのはかれこれもう半年ほど前になる。日本で人を斬りすぎて周囲が騒がしくなったためほとぼりがさめるまでのつもりで欧州に渡り、その欧州である殺し屋と出会った。なんの因果かその男の仕事に巻き込まれたり巻き込んだり、意図的に邪魔したり結果的に助けることになったりを繰り返して、いつのまにやらつるむようになり――で、ズルズルと引きずり引きずられ、挙句身体の関係まで持ち、なんだかんだで今に至る。
 
 男の名前はサンジーン。殺し屋であり、ここアメリカではフィクサーとも呼ばれている。
 
 欧州にいたころもそうだが、基本的にハンゾロウは無頓着だ。欧米人と会話できなくてもハンゾロウの人生には全く支障がないので、学んで覚えようという素振りさえなかった。それに、殺し屋とつるむようになってからはなおさらだ。この男は何ヶ国語か忘れたが、訪れたことのある国の言葉を操る。訛りまで自由自在だというその言葉は、日本語のトウホグ弁で罵倒されて証明された。

 そんなハンゾロウが英語というものを少し覚えてみようかという気になったのは、フィクサー家業も順当に軌道に乗り、少し腰を落ち着けるかと二人で住むためのアパートメントを借りた矢先の出来事が原因だ。
 サンジーンが一人で仕事に行っている間、暇だったので入ったバーで、現地の人間に指をさされながら「ファッキンクール」だと言われ、「ファック」という言葉が性行為か悪口のどちらかの意味を持ち、どちらにしても悪い意味であるという程度の知識しかなかったゾロが喧嘩を売られたのだと認識しその男を切り捨てたのだ。
 それがまた運悪くその辺りを牛耳るギャンググループの幹部。ハンゾロウが、ギャングともそれなりの付かず離れず、持ちつ持たれつの距離を保っていたフィクサーのサンジーンの連れであることは調べれば容易にわかることで、フィクサーとしてのサンジーンは一瞬でそのギャンググループと敵対。全滅させても構わなかったが、面倒は御免だと呆れ顔で言われて、夜逃げ同然でその地を立ち去る羽目になったのである。

「ファッキンジャップは喧嘩を売ってるんだろう」
「そうだな」
「なのにファッキンクールはなんで褒め言葉になるんだ、訳がわからん」
「褒められてはいねェよ。その着流しが珍しいから誂われたんだろ」

 斬った相手が悪かっただけだ、とサンジーンは言ったが、ハンゾロウはそれなりに反省した。人を容易に斬ったことではない。珍しく機嫌よく、良い条件のアパートを見つけたと笑ったサンジーンの顔がちらついたからだ。
 せめて明確に喧嘩を売られるまで辛抱してから斬ったならこっちにも言い分があっただろう。全ては己の英語力のなさが原因である。喋れなくても、せめて意味くらいは理解できたほうが良さそうだと思うきっかけになる出来事だった。

 サンジーンはそれまでハンゾロウに対しては日本語でしか話しかけてこなかったのだが、ハンゾロウに言われてそれ以来独り言、もしくはハンゾロウが理解してもしなくてもいいような他愛のないことなんかにちょいちょい英語を挟んでくるようになった。彼の話す英語の八割か九割がファックとシットで構成されているのはその出来事が原因ではなく、おそらく素だろう。何しろ彼は日本語でもすこぶる口が悪い。
 こちらに来る前、とにかくファックは汚い言葉で放送禁止用語でもあり、口にしたとたん蜂の巣にされても文句は言えないほどに攻撃的な言葉だと聞いていたし、だからこそキレてあの事件を起こしたのだが、サンジーン曰く「何十年前の話だよ」だそうだ。今でも子供相手にはそれらを直接口にはせず「Fワード」と呼んで使わないように教育するものらしいが、それこそサンジーンに言わせればファックらしい。日本語で言う「ヤバい」と似たようなものだと考えろと言われた。言葉なんてものは日々変わるのだと。

「Quit fucking around. (うろうろすんじゃねェよ)

 仕事の一環で廃ビルに忍び込んだハンゾロウがサンジーンと意図せぬ別行動をとって、「はぐれた時は動くな」という言いつけを守り一人建物の外が見える位置で壁にもたれかかっていたら、早速そのサンジーンにファックと言われた。呆れた様子で言われたのだがやはり意味がわからず返事ができずにいると、サンジーンは次いで日本語で言い直す。 

「動きまわるなって言ったろ?」
「ずっとここにいたし、てめェが探してたのはコイツじゃねェのか。たしか何とかクラークって言った」

 この廃ビルに侵入した理由がそもそも、ある男を探して連れてきてほしいという依頼をサンジーンが受けたからだ。
 彼の情報網でこの廃ビルにそいつが隠れて寝泊まりしていることを突き止め、侵入したという次第である。ヤサがバレたことを聞きつけたのか、こっそりと二階の窓から外に逃げ出そうとしていたところを捕まえて、サンジーンが自分を見つけるのを大人しく待っていたという次第だ。

「ジェレマイア・A・クラークソン、六月二十三日生まれ、三十四歳。趣味は自称観劇、実態はストリップ鑑賞」
「調べたのか」
「殺すかもしれねェ相手のことは本人が知らねェことや忘れてることまで調べるのが当然だ。言われたままの依頼をこなすだけじゃ三流以下さ」

 サンジーンに後頭部を見せて足元に横たわった男の頭を踏みつけ、ぐいっと仰向けに転がらせると、サンジーンは腰に両手を当てたまま男の顔を覗きこんだ。

「確かに本人だ。生きてるか?」
「二発くらい殴っただけだ」
「じゃあ虫の息くらいだな。イイコイイコ。生け捕りっつったのちゃんと覚えてたな」

 頭をワシャワシャと撫でられた。何かと人を小馬鹿にした態度を取るサンジーンだが、最近のブームは犬扱いらしい。ヤメロ、と払った手が当たる前にサンジーンは手を引っ込めて胸ポケットから携帯電話を取り出す。

「とりあえずクライアントに報告だ。予定通り早上がりできそうで何よりだぜ」
「なんかあるのか」
「んん……まァ、あるといえばあるかな。今夜のメシは豪勢だぜ」

 へェ、と応えながら腹を擦る。そんなことを言われると途端に腹が減ったような気がする。フィクサーでなければ料理人をやっていたかも――というよりはフィクサーであり料理人であるサンジーンの作るメシは旨いのだ。この男とつるむようになったのも胃袋を掴まれたからというのが最初だったような気もする。今は、美味いのは飯だけではないことも知っている。

「う、うう」
「あれ、起きちまったか。調子はどうだ大将」
「日本語通じるのか?」
「まごころは通じるだろ」

 まごころ、と繰り返して笑い飛ばし、目を覚ました男をハンゾロウも覗き込む。何をして依頼人に狙われるに至ったかは知らないが、災難なことだと他人ごとながら思う。
 男はヒッと息を呑んでずるずると尻で後退り、二人から距離を取ろうとした。
 
「P-Please, don't. Don't kill me!(た、頼む! 殺さないでくれ!)

 どんと・きる・みー、は多分ハンゾロウが一番に覚えた英語だ。なぜなら欧州に居た時から一番数多く自分に向かって放たれた言葉だからである。

「I've a family to feed...(食わせなきゃならない家族がいるんだ……)

 ふぁみりー。家族がいる。つまり命乞いをされているらしい。サンジーンはそれを華麗に放置して、そしてへらっとハンゾロウに向かって笑っておちゃらけた口を利く。

「Fワードはバッドマナーだって学校で教わらなかったらしいなコイツ」
「ふぁみりーもFワードなのか? っつーかお前が言える立場かよ」
「I'm fuckin' ill-bred.(育ちが悪ィもんで)

 さっそくファックの挙句舌を出す。そしてそのまま脚がひゅっと風を切り、男の腹にめり込んだ。生け捕りだというのに今度こそ死んだのではないかと思ったが、泡を吹いて呻いているのを見る限りではまだかろうじて息がありそうだ。
 無抵抗の人間に気絶するような重い蹴りを入れたことなど何もなかったかのような涼やかな態度でサンジーンは中断した連絡を再開する。電話の向こうにいる相手と不要な営業スマイルを浮かべて会話していたが、内容は早口なのでさっぱりわからなかった。さすがにクライアント相手にファックとは言わないのだなと思っていた矢先、サンジーンが一オクターブほど低い声を出す。
 
「Fuck it you asshole.(ふざけんなよクソ野郎)

 またファックが出た。ちゃんとした意味は分からないがこれは間違いなく喧嘩を売っている方のファックだ。クライアント相手に一体どうしたというのか。
 ぶち、と音が聞こえそうなほど乱暴に携帯を切ると、ため息とともに鳴り響く携帯電話を地面に叩きつけて踏み潰す。ぶっちぎった電話への折り返しに対する乱暴な保留である。

「交渉は決裂だ。値切ってきやがった」
「値切りだァ? よくある話なのか」
「ここいらじゃおれたちは新顔だからな、ナメやがったのさ。シゴトを安売りはしねェよ」

 さっきまでそこそこ機嫌が良かったのにすっかり荒れたサンジーンのファックとシットの大バーゲンセールを聞きながら、首の後ろをかきむしる。この分じゃ帰った後のお楽しみに雪崩れ込むのも手こずりそうだ。しないという選択肢はないのだが、依頼人を恨まずにはいられない。

「じゃあどうすんだコイツ」
「こいつは別のとこに持っていく。コイツがなんで狙われたか、うまいこと調べてクソ値切り野郎に更にふっかけてくれそうな奴に心あたりがあるからな……あークソ! 今日はぜってェ早く帰るつもりだったのに!」

 ぶっ壊したものとはまた別の電話を取り出して、英語とも日本語とも付かない言葉で先ほどの苛立ちを一ミリグラムも感じさせないまま通話を終わらせると、その携帯も粉々に壊した。基本的に携帯はほんとうの意味で使い捨てらしい。そんなことを考えているうちにサンジーンが完全に気を失った男の両足を抱え、ズルズルと引きずりながら歩き出す。これは後頭部が禿げそうだなあとクラーク何とかにほんのり二度目の同情をしつつ、サンジーンのボヤキに耳を貸す。

「帰る頃には日付も変わってるな……せっかく良いワインを届けさせたのに……」

 やはり今日という日にちに意味があるらしい。今日が何日かもわからないハンゾロウにとってはなんでもないいつもと同じ日なのだが、この入れ込みようでは相当特別な日だったのだろう。しかしさっき聞いた感じでは、この男は口を割りそうにない。サンジーンは言うべきと思ったことはすぐ言うし、言わないと決めたら何があっても言わない。普段の言葉も嘘で飾られる事が多いし、再度聞いても無駄だろうなと思っていた矢先。視線の先の金髪が歩みを止めて振り返った。

「Hey fuckhead.(おい、マヌケ)

 ふぁっくで呼ばれた。これは悪口だろう。斬ってもいいやつだ。ア? と胡乱に返して刀の柄に手をやろうとしたら、ひょいと何かを投げてよこされた。受け取るために柄から手を離す。ひんやりした金属製のチェーンがシャンと音を立てて掌からこぼれた。
 
「今日がこの日であるうちに、それをお前にやろう」

 受け取ったのは首に下げるもので、つけているのは獣にしろ人にしろ犬と呼ばれるものだ。俗にいうドッグタグ。
 名前などは書いておらず、交差した三本の線が彫られたシンプルなものだった。多分、質のいい銀のようだし、自分の三刀流に合わせた模様だろうからして、そのへんで拾ったという感じではなさそうだ。

「犬のやつだな」
「そうだ、犬のやつだ。懐に入れとけば銃弾からお前を守るかもな?」

 指で摘んでそれを眺め、首に下げる。すると、契約が潰れて不機嫌をおもいっきり顔に出していたサンジーンの顔がニンマリとほころんだ。
 首に銀色のそれを提げて横に立ってやると、それを自分でつけたことを褒めるように髪に指を滑らせ、こめかみから耳の後ろまでをさわりと撫でられる。今度は手をはたこうとは思わなかった。

「なァ」
「ん?」
「今日中に帰れたら、ご褒美があったりしねェのか」

 サンジーンの片目が少し細くなった。そのまま手が首の後を撫で、チェーンをたどり、タグの形を確かめるように親指が滑る。

「そうだなァ。日付が変わる前に家についたら、お前と同い年のワインとそれにピッタリの極上の飯を食わせてやるよ、ワンちゃん」

 それは良い。良いが、もう一声欲しいところだ。どうせならもうひとつ同い年の何かを。
 無言の訴えかけに気づいたのか、サンジーンはドッグタグをそのままぐいと引っ張って、そのあとは、とささやいて唇をハンゾロウの耳たぶに触れさせる。
 そして直接脳に届くように吹きこまれた言葉を受けて、ハンゾロウは犬歯が見えるような凶悪な笑みを浮かべ、気を失った男を肩に、サンジーンを小脇に抱え上げた。

 一刻も早く、今日のうちに隠れ家に戻らなければ。気を失った男の腕からデジタルの腕時計をむしりとって時間を確認した。11月11日、23時ジャスト。
 
 この男にとって特別な日らしいうちにうまいものを食うために、さっきの言葉を頭のなかで反芻しながら、走りだした。
 そして、英語の勉強はもういいな、と思った。

『Fuck me like a dog.(犬みたいに、シろ)

 骨の髄にまでずんとくるような色気とともに履かれたセリフの意味なんか、ABCのお勉強をしなくともわかるし。
 犬としては、飼い主の言葉だけが判れば、それで充分だろうから。

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