蕎麦天使と脳筋

 ロロノア・ゾロは大学生だ。体育大の二年生で、明けても暮れても剣道剣道。大学での机に向かう方のお勉強もスポーツ力学で、顔もアタマもスタイルも良いがその分腹はどす黒い女の知人につけられたあだ名は「脳筋」。脳みそまで筋肉で出来ている、の略だそうだ。お約束として「誰がだ!」と突っ込みはするが、今現在その脳筋野郎はそれを強く否定できない状況に陥っていた。

 

「……腹減った」

 

 金が無ければ腹が減る。風が吹けば桶屋が儲かる事よりもストレートに直結した原因と結果である。ゾロはファッションに気を使う方ではないし、物持ちもいい。何しろ今履いているボトムは高校時代のジャージだ。物欲もさほど無ければ、性欲だってプロに金を出してお願いするほど不自由も無い。だいたい、女とするよりも手で出すほうが楽だとまで最近は思うほどだ。枯れているつもりは無いが今はもっと剣道に集中したい。これだけストイックに己の道を探求する男は何故今こうして困窮して空腹に打ちひしがれているのか。

 

 まず第一に手持ちがもともと少なかった事が一番大きな原因だ。仕送りはしてもらっているが、家賃と光熱費、上下水道でほぼ消える。もっと安いアパートが探せばあるにはあるが、大学との距離を考えるとここから出て行くことは考えられない。バイトは土方やその他日雇いで稼いだりするが、ゾロの最優先にあるのは剣道でありトレーニングである。それらのスケジュールを優先させてなおかつ実入りのよい仕事等ツテもコネも無いゾロには中々見つからなかった。

 

 それでもそんな事を言っていられない状況であるのだが、今はその日雇いを探して金を稼ぎに出ることすらままならなかった。もう二日まともに食べていないからだ。アホなのがこの困窮に気付いたのが今日の昼だったことだ。

 

 一昨日は疲れていて、酒を飲んだらそのまま寝こけてしまっていた。昨日はコンビニで買ったが、食べようと思ったら後輩のルフィに全部食べられてしまっていた。酷い。酷いので二、三発殴っておいた。効いていなかった。タフな奴だ。というか力もあまり入らなかった。流石にこれはまずいと思いコンビニに再度出向いてレジにいくつかの商品を出し、聞くとも無しにレジの電子音を聞きながら財布を取り出した。残金290円。オイなんだこれ冗談か。紙幣なんぞ勿論無いし、緊急用に小さく折りたたんで靴下の中に入れておくとかそんな事をした覚えもしてくれる小人さんにも心当たりが無い。

 

 購入しようとしていたボリューム弁当は490円。おにぎり二つはそれぞれ110円と130円。とにかくカロリーとカルシウムをと思って買った牛乳は90円。コンビには利便性と引き換えに単価が高いのだと知識としては知っていたが、知覚したのは身をもって体感したその時が初めてだった。これでは脳筋の汚名を甘んじて受け入れざるをえないオロカっぷりである。

 

 結局おにぎり二個を買ってその場で食べた。剣道の稽古は休まなかった。その後の自主トレーニングも。ただでさえ代謝が高く、生きているだけでおにぎり2個分のエネルギー等ものの数十分で消費してしまうゾロは、家に帰り着いたときには文字通りすっからかんだった。身も心も、ついでに財布の中身も。口座に入っているのも1000円あるかどうか位だろう。

 

「明日……明日まで我慢して、銀行で金下して……ルフィになんかおごらせて……パワーつけてから、日雇い……引越し業者とか……」

 

 口に出さなければ考えすら纏まらぬ。そしてただでさえ考える事に向いていないメイド・オブ・マッソーの脳みそをさらに酷く苛むことがある。甘いような辛いような、しょうゆの、つまり煮物の香り。万年床のそばに置いてある目覚まし時計に目をやると、ちょうど夕飯時だった。この匂いだけで飯が食えそうだ。飯も無いが。涎だけがとめどなく溢れる。大の字に横たわったゾロの鼻腔にがんがん入り込む。これなんて拷問?

 

 ぴんぽーん。

 

 これも修行だ鍛錬だ。そう言い聞かせてタプタプ溢れてくるヨダレを飲み込みながら、もうチンポジを直す気力も無くいっそ朝までこのまま眠ってしまおうと考えていたゾロの耳に入ったのは、事もあろうに自分の部屋のインターホンだった。起き上がるのも億劫だが、鍵を開ける指先が震えているのに自分でも驚いた。血糖値が落ちすぎている。

 

「はい」

 

 凶悪なツラに地獄の底から這いずり出て来た様な低い声。知り合いですら訪問のタイミングを誤った事を悟って出直しを提案してきそうな雰囲気を醸し出してしまったが、インターホンを押した相手はそれに怯むことなく「どーも」と声をかけてきた。

 

「あんた、ロロノアさん?隣に越してきた黒足サンジです。これ引越しソバ。」

 

 ほい。と渡してきた男が天使に見えた。とは言えゾロは天使を見たことがないし手渡されたソバばかりをじっと見つめていたのであくまでも比喩的なものであるが、視界の端に映る男のきらきらの金髪に後光すら差しているようにも見えた。目鼻立ちのくっきりした見るからに外人顔の男がよりにもよって蕎麦を出してくるミスマッチにも気付かぬほどゾロは感動していた。蕎麦天使の登場に。神仏の類に祈ったことは無いが、今、この男には感謝の祈りを奉げてもいい。

 

「生蕎麦だから、できれば明日、明後日位には食べきっちゃって。つゆはこれ。二食分。薬味コレ。すぐ食べないなら全部冷蔵庫。蕎麦はたっぷりのお湯を沸騰させて吹き零れないように一分。茹でたら一度水で締めて。冷やして食うならそのまま、温かくして食うなら冷やした麺をを熱湯でくぐって、ツユはちょっと薄めて温めて。ツユは沸騰させないように、以上。comprenez-vous?じゃ、今後ともヨロシク。」

 

 立て板に水。まさにそんな感じでまくし立てると、蕎麦はくれはしたが一途も今後ともヨロシクする気のなさそうな愛想の無さですちゃっと片手を上げると、お隣さんは隣の角部屋に入っていってしまった。礼すら言えずじまい。しかしわざわざ追いかけて礼を言うのもなんだかおかしいし、何より今はものすごく腹が減っている。隣人ならいずれ顔を合わせる事もあるだろうとお隣さんの事はひとまずおいておいて、とにかく蕎麦だ。数日振りのまともな食事だ。先ほどまでふらふらしていた事も忘れてばたばたと台所へ駆け、インスタントラーメンくらいしか作ったことの無い片手なべを取り出して水を張り、ガスコンロに乗せて―――

 

 

 

 

「え?食えない?あ、悪ィ!もしかして蕎麦アレルギー?あ?違う?てめェその歳で好き嫌い……は?茹でられない?蕎麦を?え?」

 

 

 

 ガス代の振込みを忘れていた事に数回カチカチとガスのスイッチを捻ってから気付いて、五分ほど両手で顔を覆ったまま動けなかったゾロとお隣さんの再会は、案外早かった。

リリース日:2010/08/21

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