勝手な誓い

 ゾロの貧乏に転機が訪れたのは、ゾロに脳筋と言う不名誉ながら実に的確なあだ名を寄越した女、ナミの一言がきっかけだった。大学のトレーニングルームより充実した設備が好きなだけ使えて、しかもお金が貰える。

 

「そんな仕事、やりたくない?」

 

 やりたいやりたくない以前の話だ、どの角度から吟味しても怪しすぎる。まずそれを言い出したのがナミであるという事が最も重い怪しさの比重である。一体どれだけのキックバックを取るつもりなのか。ゾロは胡散臭そうな顔をして、それでも切迫している状況だったので「くだらねェ」と切って捨てることは出来ず、とりあえず詳しい話を聞いてから判断しようとしていたのだが、口先で脳筋が魔女に勝てるはずがないのだ。結果、あれよあれよという間にゾロはその実に怪しいバイトについていた。トレッドミルで走りながら機器の整備をする男と息も乱さず会話する。

 

「客寄せパンダ。いや、ゴリラ?」

「ぶん殴るぞ」

「ナミちゃんがそう言ってたんだよ」

 

 ゾロと会話をしているのは、このジムのインストラクター、エースだ。後から知った話だが、学友であるルフィの兄であった。不況の波はエースと、そして一応ゾロもバイトとして勤める事になった白ひげジムネスティッククラブにも影響を及ぼしていた。エースから世間話程度に相談を受けたナミの提案、それは女性客の囲い込みだった。女性がとっつきやすいルームランナーやエアロバイクの台数を増やす事。今流行の加圧トレーニングやピラティス、ヨガの講師を招いてスケジュールを組みクラスを取り入れること。

 

「そして、ハンサムなおれとそこそこハンサムなお前で頑張る女性の継続力をお手伝い」

「何しろってんだ」

「お前は口下手だからさ、普通にトレーニングしてくれりゃいい。ただ、たまに女性客と目を合わせるんだ。キャッ、あの人私を見た!もっとトレーニングして綺麗にならなきゃ!となる」

「くっだらねェ……」

「お前ね。効果出なかったらクビって自覚あるか?ちょっとは目線で女の子取り込めるようにがんばれ……ああ、でもがんばりすぎるな。悪人面だから。あと、別に女の子じゃなくてもアニキを慕う男を取り込んでくれても」

「そろそろ黙ってくんねェか」

 

 クビは困るが女の取り込みにまでは責任が持てない。とりあえずはサクラという解釈で良いようだ。確かに自分にとってはうまい仕事だが、果たしていつまで続けられるものだろうか。ゾロは内心げんなりとしながらも、最新トレッドミルの傾斜をガンガンあげて走りまくった。

 

「いいよいいよー、乳酸溜めて乳酸!」

「うるせェ!女構って来い!」

 

 

 

 ナミを讃えるべきか、エースの努力が功を奏したか、ゾロも多少の役には立ったのか。白ひげジムは徐々に会員数を増やしてきているらしい。らしい、というのは正確な人数を聞いていないのと、ゾロ自身言うほど増えていることが実感できていないからだ。前の閑散とした状態からは脱している実感はあるが、エースが言うほどでもないような気もしている。

 

「や、ちゃんとお前目当ての女子も増えてるから今のところクビはねェし、安心して良いぞ?」

「んなこた聞いてねェ」

 

 口では敵わないのでそういった話題は即座にシャットダウン。そもそも自分が口の回る方ではないし、誰かに舌戦で勝とうとも思わない。会話を切り上げようとするゾロに、エースは笑って汗だくの背中を叩いてくる。

 

「夜間会員がな、増えたんだ」

「へェ……それもナミの案のおかげか?」

「や、これはただのラッキーかな。うちにはプールもあるの知ってるだろ?そこにたまァーに来るかわいこちゃんがいて、それ目当てがね」

 

 本人は会員になってくれるし、他の会員も連れてきてくれるし、いい子だ!とエースはニコニコ笑っている。自分は金を貰ってパンダをやっているが、なにやら体よく利用されている会員もいるらしい。ほんの少しだけ不憫に思ったが、同時にどうやら自分は恵まれているらしいと再確認する。

 

「だから、お礼も兼ねて今度食事でも誘っちゃおうかなァー、と。会員登録で名前と住所はわかってるし。近所に住んでるっぽいんだよ」

「へー」

 

 それは職権乱用ではないだろうか。というか、個人情報……と思ったが、ゾロは気の無い返事しかしなかった。突っ込んで尋ねても碌な事にならないのはここ数週間の付き合いでよく解っている。とにかくゾロの周りは弁の立つ奴が多いのだ。ナミにしろ、エースにしろ、……そう、隣のサンジにしろ。

 

 彼の事を思い出したら、ぐう、と腹が隣にいるエースに聞こえるほどまで鳴った。結局顔を合わせたのはサンジが引っ越してきたあの日以来だ。なのに、舌は未だに彼が饗してくれた食事の味を覚えている。

 

 

 

 かまぼこ、青菜、刻みねぎが乗った蕎麦。こんにゃくとかにんじんとか色々入った白和え。常備菜だという鳥レバーのピリ辛煮。青菜の胡麻汚し。鳥牛蒡の炊き込みご飯。

 

「ガッツリ肉とか無くてごめんなァ」

 

 一人暮らしを始めてからついぞ見たこともなかったキラキラとまばゆいばかりの和食の食卓に目を白黒させながらも、ゾロは口の中に色々詰めすぎたせいで言葉を発せず、お隣さんが告げる慈悲深いにもほどがある一言に首を横に振るしか出来なかった。何しろ口は美味しい何かでいっぱいだ。永遠に噛んでいたいが喉も胃袋も脳も早く体内へ送り込めとシグナルを送ってくるので仕方なく飲み込む。

 

 食べてしまってよかったのだろうかと躊躇したのは最初の数分だけだった。あまりにも手際よく出された食事に、これらが引っ越してきたばかりの時の自分のように実家の母親か何かに持たされた料理だと思っていたのだが、お隣さんの弁によると、

 

「引っ越してきてからそば打つのに夢中だったもんで、碌なモンがねェけど」

 

 との事。どうやらおかずどころか蕎麦まで手打ちだったらしい。なるほど、餓えたゾロをさらに餓えさせたものの香りの発生源はここだ。めんつゆを煮出す香りだとか、その他諸々。だからといって遠慮が要らぬかと問われれば、常識で考えれば否定するべきところだろうが、何しろ理性が持ったのはそこまでだった。後はもう、貪る、啜る、かき込む、詰め込む。蕎麦のつゆまで一滴たりとも残さなかった。

 

「……ごっそさん!!」

「お粗末様。」

 

 お茶まで出てきた。至れり尽くせりとはこのことか。くちくなった腹を抱えてこのまま横になりたい。しかしそれが許されないのは、飢えが満たされて余裕ができ、部屋の様子を窺うことができたのでゾロでも理解できた。まだ開封すらされていないダンボールがいくつかあるし、組み立て途中のパイプベッドは放置されているし、散らかっているというよりは色々な事に手をつけて何も終わっていないという風に見えた。

 

「この中で蕎麦を?」

「あー、なんかやること多すぎてよ。気分転換?」

 

 蕎麦を作る手順等細かいところはわからないが、打って切って茹でる、そのあたりが気分転換になるものなのかはよくわからなかった。

 

「あー……えー……と」

 

 名前が思い出せない。蕎麦の人。天使。お隣さん。

 

「黒足サンジ。」

 

 サンジの助け舟にゾロは内心ほっとして口下手ながらに少しだけこう言おうとシミュレーションした言葉をゆっくりと紡ぐ。

 

「黒足さん。おれァ金が無い。材料費も出せねェ」

「ガスが止まるくらいだもんなァ。別に今回は金取るつもりはねェよ、ビンボーさん」

 

 人のことは言えないが案外口が悪い。だが、否定できぬ以上ゾロは一旦咳払いしてその揶揄に対しては捨て置き、周りを見回してから改めて正座をしてサンジを見据えた。

 

「だから、アレとか、他にもありゃ手伝う。」

 

 アレ、と指差したのは組み立て中のベッドの骨組みだ。手先が器用なわけでは無いが力仕事には向いていると自負するゾロにとってサンジの身体はあまりにも細すぎた。身長が自分とあまり変わらない分、ひょろっとしたイメージに拍車が掛かる。なよっとしているとは言わないが、手足が長いのでどうにも柳のような印象を受ける。放っておいたらベッドなど一生片付かないのではないかと思われた。

 

「お、マジで?あいたダンボール捨てるくらいはやってもらおうと思ってたけど、助かるなァ。他にもっつーなら、本棚とか」

「力仕事はやる。ダンボールも捨てに行く」

「ああ、場所が知りてェから一緒に行くわ。ありがたい」

 

 そう笑った男の顔は案外幼くて、思ったより歳の程は近いんじゃないかと思ったゾロだったが、じゃあ、と実際に手早く食器の片づけを済ませた男が開いた衣装ケースからは出てくる出てくるスーツ一式。これは間違いなく社会人、サラリーマンが着るものだ。ゾロにスーツの良し悪しは解らないが、ゾロが必要に迫られて一着だけ持っている吊るしのものとは随分違う、いかにも仕立てのものだという事が解った。

 

 あれだけ食べたのにまだ八分目くらいの自分の胃袋に内心驚きつつ、腹を摩って立ち上がりベッドの組み立てを開始しながら、鼻歌を歌い小物を片付けていく男の横顔を盗み見た。一部劇的にツッコミ待ちな箇所があるが、そのぐるぐる巻いている部分以外は随分端正な顔をしていると思う。スーツも良い物のようだし、何故こんなボロアパートに来たのだろう。どちらかというとオートロックの掛かる新しいマンションの12階あたりに住んでいそうな風体だ。ベッドだって安っぽいパイプベッドだが、その他のものは随分金が掛かっているように見える。調理器具とか、見たことも無いものも多い。

 

 ゾロはベッドを組み立てながら、いかん、と、おかしい、の両方の思いが一気に浮き上がってくるのを感じた。一飯の恩ある相手とは言え、ただの隣人だ。他人の私生活に興味を持ってはいけないし、ただの一度も興味を持った事がなかったのにおかしい、と首を傾げる。手元に集中しながら、結局パイプベッドだけでなくCDラックやなんかも組み立て、ダンボールを捨てに行くのにお隣さんを巻き込んで迷子になってしこたま怒られて、そして行くときよりも大分短縮された時間で部屋の前まで帰り、一応の礼を言い合ってドアの前で別れた。

 

 それが現時点でのお隣さん「黒足サンジ」の最初の、そして最新の記憶だった。

 

 

「……ゾロ、どうした?」

「ん?あァ、別に。そろそろ帰る」

「そっか、そんじゃまたな。今日もご苦労さん」

 

 そうは言われても自分は自分のためにここの機器を使って運動をしていただけだ。結局女の会員ともろくに目をあわさず仕舞いで本当に役に立っているのかどうかは微妙なところだが、請われる間は喜んでここに居させて貰おうと思った。

 

 ジムからの帰り道、そういえば結局金銭面ではある程度の解決を見たが食生活はまったく改善していない事に先ほどからぐうぐうとうるさい腹を撫でて気付く。お隣さんの蕎麦だのお惣菜だのを食べてから、コンビニ弁当が味気なくて仕方がない。思い出が美化されるにしたって強烈すぎだろう、と、受付で貰った白ヒゲロゴ入りの飴玉の袋を破って口に入れる。グレープ味だった。糖分が僅かなりと補給されて、空腹感がほんの少しまぎれたと思ったのだが。

 

「おっ、マリモ君」

 

 ぐう。聞こえた声の主に反応した胃袋がゾロの代わりに返事をした。ブーッと噴き出された。当然だろう、多分同じ事をされたら自分でも笑う。だがばつが悪いのはどうしようもないので、むっつりと機嫌が悪そうに振り返る。運動中に空腹で思い出した、愉快な眉毛のお隣さんだ。記憶と少し違うのは彼がスーツを着ていることと、髪の毛が生乾きなのか初めてあったときに見えた金髪の天使の輪の色が若干くすんでいる事だった。

 

「……雨、降ったか?」

「んぁ?おれが外にいる間は降ってねェけど。腹が減ってんならそんな甘ったるい匂いさせてないで、ちゃんと飯を食えよ。アスリートなんだろ」

 

 サンジは一緒に帰るつもりで声をかけたわけではないらしく、大人の社交辞令としてゾロに声をかけただけらしい。さらっと流そうとした腹の虫の件を穿り返してニッと笑い、通り過ぎ際にぽんとゾロの肩を叩いてちんたら歩いていたゾロを追い抜いていく。正直ラッキーだ。自分は一人でジムから帰るとやけに時間が掛かるのだが、サンジの後をついて行けば多分迷わず―――いやいや、不要な寄り道をせずに帰ることが出来るだろう。連れ立って一緒に歩く必要は無いが、ゾロは付かず離れずで金色頭を追いかけた。

 

 そういえば、濡れ髪といえば自分の髪も濡れている。ジムには立派とはいえないがそこそこのシャワーが付いている。代謝がいい所為でゾロは相当汗をかくほうなので、女性の目にも留まるから汗だくでそのまま帰るなとエースにも釘を刺されている。ゾロは頭髪を含む全身を石鹸で洗ってしまうタイプだが、ゾロの肩を叩いて通り過ぎて行ったサンジからはふわんとシャンプーだかなんだかの匂いがした。

 

 無事にアパートへたどり着いてしまうと、サンジは後ろを着いて歩いてきたゾロを特に不審がることもなく、かといってメシを一緒に喰うかとありがたい申し出をしてくれることもなく、「お疲れさん」とこれまた社交辞令的に笑みを浮かべて新居の鍵を開けて中へ入っていったのだった。どうやらお隣さんには世話焼き属性は無かったらしい。まあ当然だ。先だっては失態を晒しはしたものの、ゾロだって大人だ。メシくらい一人で食える。

 

 が、ゾロは下唇を突き出した。サンジの後をついてきてしまったので、途中で寄ろうと思っていたコンビニに寄り損ねた事に気が付いたからだ。あと、件の餓死寸前の日に食べさせてもらった食事があまりにも旨すぎたので、あれ以来何を食っても味気なく感じてしまう。アスリートなんだろ、といわれても、ゾロは剣道の技術を磨く方法と身体を痛めつけるように鍛える方法しか知らない。

 

 がちゃん、と玄関のドアを開けてスニーカーを脱ぐとあの日そうしていたように畳の上に仰向けになる。程なくして薄い壁の向こうで換気扇を回す音とか、たまに戸棚を開け閉めする音とかが聞こえる。途中、ぶおー、と音が聞こえたかと思うと、「うお!」と悲鳴が聞こえた。片目を開いて肘を突き反射的に上半身を起こすと、どうやらブレーカーを落としたらしい。しばらくの後また音が聞こえ始めたので大事には至らなかったようだ。

 

(……レンジでも動かしながらドライヤーでもかけたか)

 

 そういえばサンジの髪の毛は濡れていた。雨は降っていなかったし、一日働いたであろうスーツ姿のくせにシャンプーの甘いにおいがした。あめを舐めていたゾロを「甘ったるいにおい」とサンジは称したが、ゾロにしてみればサンジの匂いの方がよっぽど甘いにおいだと思った。乾いているときにはつやつやキラキラしていたから、多分それなりに気を遣って手入れをしているのだろう。ゾロの、そこらじゅうが重力に反しているツンツンした硬い毛とは違ってきっと指通りよくサラリと―――

 

(なんだそりゃ。関係ねェだろ男の髪なんざ……もういい、このまま寝る)

 

 布団を敷くのも億劫だ。眠りに落ちるのは得意だし、目を閉じていればこのまま何があっても朝まで眠る事ができるはずだ。そう考えてゆっくりと目蓋を落とした。

 

 眠りに落ちてから数十分と経ってはいないだろうが、眠りは深かった。疲れていたのもあるし、普段から眠る事が趣味だといっても良い位の、ショートスリーパーの対極を行く快眠生活を送っている。だが、このときは違った。

 

 ぴんぽーん。

 

 普段であれば眠っていれば嵐が来ても目覚めない、自覚は無いがそのように大学の友人から言われた事がある。だが、大の字になっていたゾロは六つに割れた自慢の腹筋をフル活用してばねのように飛び起きた。あまり鳴る事の少ないゾロの部屋のインターホンを一番最後に馴らした人間は隣の男だ。大袈裟だが心理的には本当に死に掛けていたゾロにはあのピンポンは福音だった。たった一度きりのその音はゾロの本能に刷り込まれており、パブロフ状態でインターホンがなってから0.8秒でドアを開けた。インターホンをスターターとしたドア開け選手権があったらトップランカーになれること間違い無しの俊敏な動きだった。

 

「……ひっ!……あ、……あの、新聞……」

「……あァ!?」

「な、なななななんでもありませーん!!」

 

 はたして、ドアの向こうにいたのは天使ではなく普通のおっさんであった。お前を今から10秒以内にコロス、思わずそんな顔で応対したゾロにビビらないのは古くからの付き合いのルフィか、その兄か、隣の男くらいだろう。当然ただのおっさんは舌をがちがち噛みながらも必死に謝って、粉洗剤とゴミ袋を数パックずつ置いてごろんごろんと転がるように逃げ去っていった。

 

「……何の騒ぎだ?」

 

 隣のインターフォンの音だって響いてくるボロアパートだ。当然男の悲鳴も階段を転げ落ちるぐわらんぐわらん言う音も、お隣さんには届いたのだろう。スーツから一転して半そでとハーフパンツのルームウェアに着替えているサンジが銜え煙草で怪訝そうな顔をドアから覗かせた。まさかあんたが「肉じゃが作りすぎちゃったからどうよ?」なんて言いながらインターフォンを押してくれたんじゃないかと期待してドアを開けたらば新聞の勧誘で思わずぶん殴りかけました、などと正直に言えるはずも無い。

 

「いや、……新聞の勧誘追い払っただけだ」

「あそ。もうちょっと穏便でもよかったんじゃねェの?あーでもおれ経済新聞なら取りたかったのに」

 

 帰っちゃった、と今はもう豆粒みたいになった勧誘員のおっさんの背中を残念そうに見遣り、サンジはもうゾロに目をやらずに部屋に戻ろうとしていた。開け放たれたドアから漂ってくるのは、この間と同じ和食の香りだ。失敗した。色々失敗した。この香りをかいでしまうともうめったな事では眠る事はできないだろう。

 

「ちょ、……あの」

「んー?」

「……洗剤。……いらねェか。こんなに貰っても腐る」

「いや洗剤は腐らねェから安心しろ」

「ゴミ袋は」

「ソレはもっとくさらねェだろ」

 

 ぼりぼり、とサンジが首の後ろを無造作に掻きながら不思議そうにサンジを引き止めようとするゾロを見遣る。困っている様子では無さそうだが、銜えたタバコを上下に揺らしてゾロの真意を測るように目をまっすぐに見つめ返してくる。

 

「……いらねェか」

「洗剤はこだわりがあるんでなァ……ゴミ袋なら貰ってもいいが」

「やる」

 

 ぶん、と勢いよく差し出された市指定のゴミ袋を受け取りながらもサンジは酷く困惑しているようだった。自分だって自分が何をしたいのかすらわからない。だが、サンジは口に咥えた煙草を手にとってふうっと煙を吐き出すと、マリモ君、とゾロに呼びかけた。そういえばいつの間にかマリモ君で呼び名が固定されているのが不愉快だが、その呼びかけに応じて顔を見ると、サンジはなんとも表現しがたい表情を浮かべていた。

 

「……要するに、腹減ってんだろ?野郎に借りを作るのは趣味じゃねェ、指定ゴミ袋10枚分位は食わせてやるよ。あがれ」

 

 しょうがねェなァ、なんてくすぐったそうに笑う男を見て、ゾロは手に持っていた粉洗剤を落とした。下手をしたら中身をぶちまけるところだったが、昨今の粉洗剤の箱は多少なりと頑丈に出来てくれていたらしく、がさ、と音を立てるに留まった。後はもう、玄関先に勝手においていかれた粗品を足で乱暴に室内に蹴り入れると、これで二度目になる黒足宅へと足を踏み入れた。

 

 ゾロのための食事を改めてよそっているサンジの横顔を盗み見ながら、先ほどの笑顔を目蓋の奥で反芻する。男に対して未だかつて形容した事の無い言葉が浮かび、そして瞬間、脳筋のゾロのシナプスが奇跡的にはじけた。

 

 

―――うちにはプールもあるの知ってるだろ?

 

 会社から帰った風だったのに、金髪が濡れていた。

 

―――そこにたまァーに来るかわいこちゃんがいて

 

 気のせいかもしれないが。いや、でも。やっぱり。

 

―――近所に住んでるっぽいんだよ。

 

 白ひげジムからここまでは、歩いて10分程度だし。

 

 

 頭の上にピコーンと裸電球が灯り、ゾロは思わず呆然とした。

 

 

(……なんてこった、この眉毛、エースの野郎に狙われてやがる!!)

 

 

 この男はきっと近いうちにエースから食事の誘いを受けるだろう。その時この男はどうするのだろうか。他人の事など我関せずでやってきたゾロは戸惑いを隠しきれずにサンジの丸っこい後頭部を見つめた。エースは奔放な性格だ。具体的に何をかは聞いた事は無いが、「どちらも行けるクチだ」と嘯いているのを聞いたことがあった。それに、ゾロと違って男にも女にも友達が多い。サンジももしかしたら、メシくらいなら、と応じるかもしれない。

 

 

「……なあ」

「あ?」

「頼みがある」

「あァ?なんだよ」

 

 

 味噌汁を椀に装ってゾロの前に置きながら、サンジは食卓に腰を下ろした。そのタイミングを見計らってゾロは口を開く。脳筋でも腐っても大学生だ、無い知恵を振り絞って言葉を選び選び呟くように告げる。

 

「……剣道の大会が、来月ある。すげェ、大事な試合だ」

「ヘー頑張れよ」

「それまで、身体のコンディションをベストにしておきたい」

「それはまァ、そうだろうな」

 

 見れば煙草はいつの間にか新しい。同意を示しながらも副流煙についてはまったく配慮する気が無さそうだが、それでも頷いてくれた事を糸口にサンジの顔をじっと見つめると、サンジは少しその真剣さにたじろいだ様だった。

 

「メシ、食わせてくれ」

「用意してやったじゃねェか。さっさと冷める前に喰えよ」

「これも食う。明日も。毎日食わせてくれ」

「大会まで、ってことか?」

「………そうだ」

 

 本当ならリミットを設けたくは無かったが、それではわざわざ大会を引き合いに出した意味が無い。この約束さえ取り付ければ、サンジはエースに食事に誘われても断る事が出来る。これはサンジのためでもある、とゾロは我が事を棚の上に上げて、断れば斬るとでも言い出しそうな凶悪なツラでサンジと向かい合った。

 

「悪ィけどさ……」

「金なら払う!最近バイト始めたから、材料費に色つけるくらいもできる」

「……うーん」

 

 金っつーか……と、サンジは苦笑いを浮かべた。考えてみればサンジだって毎日自炊しているわけでも無いだろう。正直なところ迷惑千万に違いない。だが、ゾロは自分の頼みを気を利かせて撤回する事をしなかった。サンジはその強い視線に根負けしたように肩を落として頬杖をつくと、銜えた煙草を指に挟んでその指でゾロの顔を指差す。

 

「わーかった。睨むな」

「……いいのか」

「条件付でな。おれだって仕事がある、今日みたいに早く帰ってくる日ばっかりじゃねェ」

「解ってる」

「そん時はどっかでちゃんと喰え。今日みたいに腹空かして待つな。ただし、コンビニの飯は食うな」

「……そんだけか?」

 

 うーん、とサンジは再び白筒を口に銜え、考え込むように首をかしげた。乾いた髪がさらりと頬をなでている。反射的に手を伸ばしかけて、不自然な動きで自分の頭に手をやって頭皮を掻く。暫しの間サンジは考えている様子だったが、思いついたようにもう一つ、と付け加える。

 

「このおれにおさんどんさせようってんだ、その大会とやら」

 

 悪戯っぽく笑って、

 

「頂点極めろよ?」

 

 煙草のにおいのする指の長い掌を伸ばし、ゾロの頭をぐしゃりと撫でた。それからまた鍋の世話をしにキッチンへ戻っていく。僅かに耳に届いたのは鼻歌か。その鼻歌のリズムに合わせて小さくて丸い頭をゆらゆらと揺らしているのを、空腹もそろそろ極まりつつあるというのに、食事にも手をつけず見つめてしまった。

 

(あんな無防備なのは、おれが守ってやらねェと)

 

 なにしろサンジ自身は貸し借りゼロだと思っているようだが、こちらの方が負債は大きいとゾロ自身が思っている。サンジに相談の一つもなく、ゾロは自分自身に勝手に約束した。命の恩人であるこの男は、おれがエースやらこいつ目当てにジムに通う連中から守ってやるのだと。

 

「いただきます」

「ほい、どうぞ」

 

 しばらくぶりに口にしたサンジの作った飯は、やはり格別に旨かった。

リリース日:2010/09/15

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