In no time

 一月のある寒い日。
 警察官の巡査であるゾロは、日課である町内の見回りを大方済ませて、最後に残っていた巡回箇所である商店街に立ち寄った。数店舗に顔をのぞかせて挨拶すると、いつものレストランに足を運ぶ。
 マホガニーのドアに張ってあった張り紙を見て、踵を返してさっき通り過ぎた美容室のドアノブに手をかけた。
 温度差のため結露で曇ったガラスドアを開けると、モダンな店の内装には不釣り合いにも思える牧歌的なベルの音とともに、店の奥から男の声が聞こえる。

「いらっしゃいま……なんだてめェか」

 奥からほうきを持ったまま出てきた男、サンジは、ゾロの姿を認めると最後まで言わずに奥へと戻ってしまった。憎らしい物言いではあるが、長年幼なじみをやっている以上慣れたものだ。
 カラーやパーマ用の薬剤の刺激臭と、シャンプーなどの人工的な甘い香りの混ざった空気がつんと鼻を刺すのにゾロの方こそ顔をしかめながら、ドアを閉める。

「今日。店は定休日だったか?」
「うちに定休はねェよ。今日は知り合いの結婚式のキッチンにスタッフ総出で行ってたんだ。っつーか、今日は臨時休で夕方過ぎまでいねェって前もって言っといたろうが」
「そうだったっけな」

 サンジは、彼の祖父と共にレストランのコックをしている。
 レストランのドアに張ってあった紙には、今日は休みであること、ご用の方はこの美容室まで――と書いてあったのだ。
 用事があったわけではないが、ゾロは巡回が終わるとレストランに毎日立ち寄っている。サンジの顔を見に。

「ジジイや他のクソコック共は新郎新婦に引っ張られて二次会」
「お前は?」
「ボンちゃんが今日はてんてこ舞いだってんで、臨時バイト」
「あァ……成人式か」

 ぴんぽん、と言いながらサンジは箒で集めたカットされた髪の毛やほこりを、床のゴミ箱の蓋を開いて掃き入れた。
 ボンちゃんというのはこの美容室のオーナーだ。流行り、というわけでもないだろうが、最近市民権を得てきたオネエというか、まあオカマだ。美容師にはそういうクネッとした男が多いというステレオタイプを持つゾロだが、ボンちゃんはオネエでありながら益荒男でもある。子供の頃から知っているが、年をとっている感じがしない。多分バケモノだろう。

 そのボンちゃんが、とにかく美容に関しては……少なくとも自分の化粧に関すること以外はオールマイティで、着付けも何でもできてしまうものだから、とかくこの時期は最高に忙しいのだという。

「おれも前世話になったしなァ、無下にはできねェだろ」

 四年くらい前。ゾロとサンジの成人式の時は、剣道で着慣れていたゾロは自分で紋付袴を着ることができたが、サンジは袴をボンちゃんに着つけてもらったのだと言っていた。
 スーツでいいって言ったんだけどな、と照れくさそうに笑ったサンジを見て、似合わねえから帰ったらすぐ着替えろと口走ってしまい、骨盤がゆがむかと思うくらい強烈な蹴りを食らったのはしょっぱい思い出だ。その日サンジは一日中不機嫌で、帰ったら本当にすぐ着替えてしまった。

 なんでもっと別の言い方ができなかったのかとずっと後悔した。今でも思い出すたびに喉の奥がぐうと鳴る。
 本当は誰にも見せたくなかったのだ。他の誰にも、サンジのあの和装の姿を。照れた笑顔を。

 そう。このロロノア・ゾロ巡査は。
 小学校時代から抱えてきたこの初恋を、今でもこじらせているのだった。
 
 日に日に強くなる思いとは反比例。サンジは成長するにつれゾロと距離を取るようになった。
 一番距離が近かったのは多分高校時代で、そこからサンジ市場におけるゾロ株は成人式の出来事みたいなことの繰り返しでちょいちょい落ちていたのだがストップ安になったのはゾロが警察官になったその初日だろうと思う。
 制服、警棒、手帳、そして拳銃を支給され、それをつけてお披露目した時はちょっと好感度が上がったように思ったのだが、サンジが拳銃見せてくれよ、なんて言った時にサンジ本人はおろか周りが引くほどガチで怒ってしまったのだ。

 なにしろ自分はサンジといるととことん油断してしまうので、好奇心旺盛な猫みたいなサンジがその隙にこれを手にして万が一にでも、手に怪我でもしたらとそんなふうに思ったらついカッとなってしまった。何かと危なっかしいサンジを守るためにこの職についたのに、そんなことになったら悔やんでも悔やみきれない。
 今思えば身内に警官が出たらまず興味が出そうなところだし、ちょっとホルスターを外してみせる程度のことでよかったのだろう。そこから叱るにしたって、怪我をさせたくないと思ったことを素直に言えばよかったのにとにかくアホだの馬鹿だの二度と触ろうと考えるなだの、責めることしかできなかった。
 
 近所の駐在所に勤務するようになってからもこうして毎日顔を見に来て、以前みたいに会話もするが、あれ以来なんとなく距離を置かれていると肌で感じる。さびしい。が、素直にそう言えたら苦労していない。

「バイトってもお前美容師の資格持ってねェだろ」
「ハサミは持たねェよ。掃除とかカラー剤出すとかそんな程度」

 着付けは手伝わせてもらえねェしー、と唇をとがらせる。そりゃそうだ。手伝うも何も着付けなんかできないだろうし、この女好きが顔面を崩壊させてデレデレしていたら今後女の着付け客は一切近寄らないだろう。むしろ逮捕しても良いレベルだ。いくら惚れた相手とてそこは容赦できない。

「オーナーは?」
「ようやく落ち着いたってんで、物置でレンタル着物の整理。用なら呼ぶぞ。カットか? それともパーマ?」
「いや……一人なのかと思っただけだ。おれは客じゃ……」

 ふうん、とサンジは箒を用具入れにしまいこんで、近くに歩み寄ってくると何を思ったかゾロの帽子を取り上げて髪をワシャワシャと撫で付けてくる。あまりに近いので思わず青い目に見入ってしまい、反応が遅れた。

「……何、してる」
「や、いつから髪洗ってねェのかなって」
「そんな前じゃねェよ」
「その言い分だと少なくとも昨日や一昨日じゃねェな」

 図星であることは幼なじみのこの男には隠し切れない。ゾロはもともとずぼらな性格で、風呂より睡眠を優先させることが多い。
 風呂は毎日入れ、頭も少なくとも二日に一度は洗えとこの綺麗好きに言われて育ってきたので、本来のゾロのペースよりはちゃんと入っている方なのだが。

「洗髪してやろうか。今なら五百円」
「金とるのかよ」
「ったりめーだ! 上水下水にシャンプー台に光熱費! 人件費含めたら足が出るわ。で、どーすんださっさと決めろ」

 今日は日勤で勤務時間は過ぎているが、それでも自分は制服を着ているし、そもそも髪なんざ自分で洗えるし、別にいい。
 
 ……と言えなかったのは、惚れた弱みだ。それに、サンジに触られるなんて何ヶ月、いや、何年ぶりだろう。そう考えると断る選択肢が浮かんでこなかった。
 てきぱきとシャンプー台に案内されて、顔にガーゼタオルを乗せられ、しゃかしゃかと髪を洗われている。警察官の制服を着たまま。
 湯加減がどうだのカッパみたいなのが苦しくないかだのマニュアルっぽい事を聞かれるのに生返事をしながら、眉間に皺を寄せた。

「お痒いところござんせんかー」

 たかだか五百円かそこらで他の奴の頭にもこんなふうに触れるのかなんて考えるととにかく胸糞が悪くて、頭とかそういうとこじゃないもっと胸の奥の部分を掻き毟りたい感じだが、そこを掻いてもらえるはずもなし、黙ったままでいるしかない。

「……お前は美容師よりコックをしてろ」

 この手が触れる相手が食材だったから嫉妬なんかせずに済んでいたのだ。
 そう思ってついそう言ったが、サンジはそうは受け取らなかったらしい。

「せっかく洗ってやってんのに文句かよ、ったく」

 基本的にゾロの秘めた思いを載せた言葉はサンジに届くことはない。今回もそうだ。
 ゾロはモヤモヤした気持ちでいるよりはせめてこの僥倖を味わうべきだと気持ちを切り替え、目を閉じて深呼吸をし、指先の感覚に集中した。
 
 



 シャンプー台に横たわった幼なじみの眉間の皺が深い。

(そこまで嫌なら断りゃいいのに)

 顔に似合わずお人好しだな、とサンジはガーゼタオルで相手の視界をほぼ奪ったのをいいことに苦笑いを浮かべた。
 多分自分の必死さを感じ取ったんだろう。なにか言いたげにはしていたが、結局頷いてサンジに言われるがままにシャンプー台に座ったのには、実は内心驚いた。

(マリモ頭に触るのも、久しぶりだなあ)

 本当はずっと触りたかったけれど、あるきっかけでサンジはゾロに今までみたいに馴れ馴れしくするのをやめた。
 ゾロが警察官になった日のことだ。
 
 幼なじみが正義の味方になったことは、とても誇らしかった。
 自分が専門を卒業して、まだまだ見習いながらも実家のレストランで包丁を握ることを許された時に、良かったなと笑ってくれた時みたいに、自分もゾロを褒めてやりたかった。
 けれど、周りに人がたくさん居て、自分もまだ若くて。少し茶化すみたいに拳銃を見せて欲しいと言った時、ゾロは本気で怒った。普段から怒鳴りあうことの多い腐れ縁だったけれど、あれほどまで怒られたのは今までにないことだった。

 怒られたから拗ねたというわけでは、勿論ない。それだけこの警察官という職業に本気なんだな、と思ったのだ。
 そしてなんだかいろいろ、多分無意識に目をそらしてきたことを、一瞬にして自覚してしまった。
 
 ゾロが好きだ。
 
 だから、彼が幼い頃から本気で目指してきた職についた今、こんな邪な思いを持った自分が近づいちゃいけない。
 身内から犯罪者を出したら一巻の終わりとか、本人の力の及ばないところで足を掬われる世界だと聞いている。女好きで通っている幼なじみがまさかのホモとか、醜聞でしかないだろう。

 今度昇進試験を受けると聞いた。この男はいつでも上を目指す。だから、レストランへの巡回もなくなるだろう。
 そうなれば会う機会なんて皆無になる――そう思ったら、こんな暴挙に出てしまった。勤務時間外とはいえ、皆の人気者のおまわりさんを、あろうことか制服のまま洗髪してやるなんて。
 けれど、チャンスは今しかないと思ったのだ。せいぜい手指が感触を覚えていられるように、丁寧に触れる。

「お前の髪に高いシャンプー使うのもったいねェな」

 すでに返事がない。呼吸音から察するに、寝ている。
 くすりと小さく笑って、シャンプーを塗りつけて泡立てた。体を洗うついで程度にしか洗わないのだろう、昔からずっと短い髪。それでも手触りが悪いとかではなく、ゾロ本人と同じように強い髪だ。下手をすると皮膚に刺さりそうなくらいの剛毛。犬を洗っているみたいだ。地肌から伝わるゾロの熱が心地いい。
 
 しっかり洗って泡を洗い流す。さすがにトリートメントはいらないだろう。厚手のタオルに水を吸わせながらガーゼを乗せた顔を見下ろす。どれだけ肺活量が強いのだか、ただの寝息なのにガーゼがふよふよ浮きかけるのが面白すぎる。眠っているからか、さっきまでの眉間の皺はもうない。
 寝付きが良いのは知っているけれど、昨日は当直だったはずだからあまりちゃんと眠っていないのだろうし、リラックスしてくれたなら良かったと思う。

(てっぺん取れよな、ゾロ)

 エリートではない男が上に行くのは並大抵のことではないだろうけれど、サンジが惚れた男だ。できないはずがない。
 
 
 祈りとか、願いとか、想いとか。
 全部そこにおいていくつもりで、サンジは身を屈め、ガーゼ越しにゾロに触れた。
 
 
 





「ボンちゃーん。おれ店に戻るから。邪魔になったらゾロたたき起こして帰らせてやってくれよ」
「アラッ、ロロちゃん来てたの!? 水くさいわねィ!」

 奥に向かって声をかけたサンジに、奥から返事があった。
 オーナー、ボン・クレー。バレリーナもかくやという軽やかな足取りである。

「助かったわサンちゃん! 今度ご飯食べに行くからタコパ用意しておいてチョウダイ!」
「タコはちょうどシーズンだけどなァ、パフェか……」
「なによう! タコパ最強ジャナイよう!」

 分かった分かった、と答えてサンジはカウベルを鳴らし店を出て行った。
 暖房と換気扇の立てる僅かな音だけが響く静かな店内で、ボン・クレーはレジを開けて電卓をたたき、金勘定を始めながらなんでもないみたいに声をかける。

「んでっ、ロロちゃん」
「……なんだ」

 声をかけられて、むくり、とゾロが起き上がった。
 ずっと起きていたのか、ボン・クレーが来たから起きたのかは知らないが、昔から野生の動物のような眠り方をする子だった。本当に子供の顔でぐーすか寝ているのを見るのは、近所のレストランの息子、サンジと一緒にいる時くらい。
 いつもポーカーフェイスで、何事にも動じないイイ男に成長した。彼を簡単に動揺させたり取り乱したりさせたりできるのは、サンジくらいのものだろう。

 でもこれはどうかしら、と真っ赤なルージュを引いた唇を歪め、問いかける。

「ロロちゃんはいつサンちゃんにプロポーズするの?」
「昇級試験に受かったら、することにした」

 動揺の破片も狼狽の欠片も見せず、キリッとした横顔を見せて被りながら言い、ゾロは帽子をかぶった。
 やっぱりイイ男だわ、と思いながらも、子供の頃から二人を見続けてきた自負があるボン・クレー。このままでは少し悔しいので、出ていこうとするゾロの背中に追いつくように電卓を叩きながら言葉をかける。

「おまわりさん、ガーゼ持っていかないでちょうだいねィ。無断で持って行ったらドロボーよゥ?」

 顔にかかっていたガーゼをぎゅっと握りしめ、何気なくポケットに入れようとしていたゾロがぎくりと肩をびくつかせた。
 そんなゾロを見て、ボン・クレーは満足気に勝利宣言の高笑いをしたのだった。

リリース日:2015/02/19

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