頭痛の種

「薬、出そうか?」

 よく眠れるやつ。

 船員の健康状態を記したカルテを見ながらそう言うのは麦わらの一味のクルーであり優秀な船医であるトニー・トニーチョッパーである。化け物だと自分を卑下した時期もあったが、今では自分よりも人間のくせに化け物じみた連中の居る船に乗っている。そこまでに至るには涙無しには語れない色々があったのだがそれについては今は割愛する。今はその化け物めいた人間のうちの一人である男の診察中だ。

「いや……あァ、うーん。……いや、いいや。そこまでしてもらうほどじゃねェよ」

 男はサンジという。毎日の食事を提供してくれる最高のコックだ。女の前では奇怪な顔と動きになるが、それ以外でも基本的には普段から元気一杯だ。風邪もひいたことがないという。その彼の冴えない顔色に気付いたのは多分医師であるチョッパーだけだっただろう。

 自覚症状は頭痛と目の乾燥。診察の結果は、寝不足だった。栄養状態が良いので目立つ隈は出ていないが、目の充血がある。

「頭痛は全ての病気の前兆に成り得るんだ。何か変わったことがあったらすぐに教えてくれよ?」
「あァ、心配かけちまったな。ちょっと新しいレシピの開発に夢中になっちまったんだ。今日はちゃんと寝る。今でも普通に眠いしな」

 そこまでいうなら、と心優しいトナカイは薬の調合をしない事にした。カルテに何かしらを書き込む。要経過観察と言った所だが、とにかく彼はこの船の生活基盤であり要だ、倒れられては困るし、ありがとうと頭を撫でる手が疲れているのは寂しい。

「さぁて、そろそろおやつを作らないとな。チョッパーお前何食いたい?礼にリクエストを聞いてやるよ」
「本当か!?じゃあおれ、ドーナッツが良い!」
「よぉし、待ってろ。お前のには特別にチョコレートのコーティングしてやるからな」
「やった!う、嬉しくなんかないぞコノヤロー!」

 そうしてはしゃいで回るトナカイの頭から手をそっと離すと、チョッパーに背を向けて診察中くらいはと火をつけずに銜えるだけにしていた煙草に火をつけ、キッチンへの道を歩み始めた。耳のいいトナカイに届かぬように心の中で悪態をつきながら。



―――クソマリモめ!



 この間天日干しにして作ったセミドライトマトのオイル漬けを使って作ったハーブたっぷりの温かくて甘酸っぱいソースを、豚の三枚肉の塩漬けと合わせて煮込み、刻んだブラックオリーブを混ぜ込んで削ったチーズをかける。朝焼いて残しておいたバゲットは薄く切って軽くトーストしておく。ウソップに卵の殻だけが欲しいと頼まれ中身を抜いておいたタマゴは小さなキッシュを作った。

 これは見張り当番に供する為の夜食である。が、ただの夜食にしては少しばかり豪華で手間隙も掛かっている。全てを温かく最高の状態で提供する為に手際よく作業しながら、サンジはキッチンのドアについた丸窓の向こう、マストの頂上で恐らくは居眠りをしているであろう剣士のいる方向に顔を向けて深い深いため息をついた。

 ここ二週間ばかり、よく眠れていない。サンジはもともと何かあると一人で考え込んでしまうタイプだが、今回も例に漏れずそれであった。だが、その悩みもこの豪華な夜食とあの剣士が日夜狙っていたちょっといい酒、これで解決するはずだ。

 剣士に頼みごとをする。命令ではなく、お願いをするのだ。サンジのプライドはそれをするには高すぎて、だからこそこうして少し手の込んだ準備をして、交換条件としてそれを供するのだ。

「コック、酒」

 キッチンは確かに公共の場であるが、同時にサンジの城でもある。昼間ならともかく夜間は挨拶くらいしても罰は当たらないと思ったが、普段は茹で過ぎたスパゲッティよりぶちぶちとすぐ切れる堪忍袋の尾を今回はアルデンテにして多少の強度を保つようにしている。おう、と応えてバスケットに入れた料理と酒のボトルをテーブルの上におく。

「まあ、そこ、座れ」
「あ?」

 バスケットと酒を持って見張り場に退散しようとしていた剣士、ゾロは、そのバスケットが微妙に手の届かない位置に置かれた事とそれと同時にかけられたサンジからの一声に不遜かつ不審げな態度を隠そうともしない。だが、サンジはその態度に対して怒るでも怒鳴るでも睨むでもなく、ただただ静かな目でゾロを見ていた。

「……なんだよ」

 ゾロは示される椅子の傍に近寄りはしても座りもせずにサンジを睨み付けるが、自分に供される予定の酒が自分には絶対に出されない類の上級の酒である事に気が付いたようだった。サンジは椅子に座ってゾロが座るのを待っている。このやり取りには、恐らくその酒を提供するだけの理由があるのだと悟ったらしいゾロは漸く椅子を引いてそこに腰掛けた。

「テメェに折り入って頼みがある。これはまァ、それの前金みてぇなもんだ」
「……なんだ?」
「テメェのことだ。テメェにしか出来ねェことだし、絶対にやってもらわなきゃなんねェ」

 それはあまりにも真剣で、懇願するような声だった。こんな声をゾロに向かって放つのは初めてのことだった。何故かゾロの喉がごくりと鳴ったのが聞こえたが、たぶんバスケットの中でいい香りをさせている料理と高い酒への期待からだとサンジは自分を納得させた。まだゾロはやるともやらないとも言っていない。そして自分は真剣だ。真剣には真剣で返す、それが剣士としての流儀のはずだろうと目で挑む。

「言ってみろ」

 料理のために胸ポケットに入れたネクタイだとか、俯いた為にさらりと耳から流れた髪だとか、曲げられた手首のぽこっと浮き出た骨の部分とか、そういった部分をゾロが見ているのが判った。この男の視線は痛いほどに感じるのだ。サンジはそれらから逃げる為まだ長い煙草を灰皿に押し付け、肘を突いて組み合わせた手に額を押し付けた。祈りのポーズにも見える。そして、俯いたままサンジが口を開く。



「マスをお掻きの際に、おれの職業を連呼することを可及的速やかに止めてもらいたい」
「……」


 ゾロは黙りこくってサンジを見ていたが、その表情にどんな色が混じっているのかは俯いて額を組んだ手に押し付けてテーブルばかりを見ているサンジには見えなかった。人の性的趣向に口出しをする気はないし、いくら仲の悪い剣士相手だとは言えどこかで人のセックスを笑ってはいけないという本屋で見かけた小説のタイトルに酷く感銘を受けたサンジは人のオナニーも笑わない事にしていた。

 自分のオナニーは別段特殊なものではない。オカズも毎日違うし(船のクルーは恐れ多くて使ったことはない)、狭い船の中なのでシャワーを浴びながら軽く済ませる程度。特に喘ぎも呻きもない本当に自己処理という言葉がぴったりと来るオナニーだ。だが、見た目からして田舎侍のロロノア・ゾロ。彼のマスターベーション現場に不幸にして偶然遭遇してしまったサンジは、彼の低く太い声が自分の職業を連呼しているのを聞いてしまったのだ。

 場所は見張り台、マストの上。見張りのゾロに「ほれ」「おう」という簡潔なやり取りをもって差し入れを提供し、そのまま軽くシャワーを浴びて眠るつもりだった。朝の仕込みも出来ているし、パンもしっかり捏ねて冷蔵庫で生地を低温発酵させている。前述の自己処理も軽く行って、身も心もすっきりして甲板に出た。本当に機嫌がよかったし、風呂上りに少し潮風が肌寒かったから、ゾロに出した酒から一杯くらいもらってナイトキャップにしようと思ったのだ。思ってしまったのだ。それが間違いだった。

「……ッ、く…」

 はしごに登ろうと手をかけ途中まで上がったところで何か妙な声が聞こえた。ついぞ聞いた事のない剣士の切ない感じのうめき声。サンジの心臓が小動物のように跳ねて手足が動かなくなった。何か悪い夢でも見ているのだろうかとも思ったが、どうもそんな雰囲気ではない。物音を気にせず上がろうとしていた自分の立てる息とか、ぶら下がった縄の軋みとか、ありとあらゆる音が気になった。この上にいる剣士に自分の存在を知られてはならない、本能がそう告げていた。

(マス掻いてやがんな……)

 集団生活というものになれているサンジは絶対に一人になれる空間というものを探すのが上手い。そのうちの一つがレディも使うことがあるシャワールーム。勿論鍵がついているし、シャワーカーテンもある。トイレ行きたさに無理やりドアを開けられてもカーテンまで開けられることはない。自己処理なんかは数分もあれば終わるし、人に絶対見られない時間帯も自然と選んできた。

 だが、剣士は違ったらしい。外で、サンジがまだ起きていると判っている時間帯に、それを行っているのだ。息遣いは流石に聞こえないが、断続的に、まあ、男としてであるが色っぽい声を恐らく食いしばった歯の隙間から漏らしている。サンジはマスターベーションの際に声を上げない方であるが、声を出しているからといって別におかしいとも思わないし笑うつもりも無い。

 そーっと、そーっと。音を立てないようにはしごを一段ずつ降りるサンジの耳に、どうやら絶頂が近い剣士の声が耳に届いた。

「うっ、……ック、……コック」


(ま、待て待て待て待て!なんだそりゃ!それを言いながらイくな!出すな!!)


 サンジの心臓はこれ以上無いくらいに早鐘を打っていた。ゾロは何を思ってかサンジの名前を呼ばないので、その口から出るコックという職業はつまり自分の事だと認識していた。サンジははしごにぶら下がって甲板にたどり着く前に靴を脱ぎ裸足で甲板の上を歩くと、既に眠っているロビンやナミに心で謝罪しながら少し大きめにバスルームのドアを開閉した。まさに今風呂から上がって出てきた体で。

 ひょい、と見張り台からゾロが顔を覗かせる。先ほどまで一人で盛り上がっていたとは思えない澄ました顔だったが、その手にはべったりと精液がついているのだと思うと居た堪れなかったし申し訳なかった。

「居眠りすんなよ」
「ああ」

 ゾロにそう声をかけ男部屋に戻ったが、サンジはろくに眠れなかった。あのときのゾロの声が耳をついて離れなかったからだ。ゾロが何故そんなことを口走りながら達したのかは深く考えない事にしても無駄だったので、何か理由を考える事にした。何処かの島で見かけた料理人のレディに思いを馳せているか、お気に入りのグラビアかAV女優がコックさんプレイをしていたとか(それがなんなのかはサンジにもよく判らない)、もしくは少し変わった名前ではあるがコックという名前のレディなのだと思う事にした。それでも眠れなかった。毎日か二日に一度くらいは行っていた自己処理も、なんだか出来なくなった。

「……聞いちまったのは、悪かった。いや、聞き間違いかも知れねェし。あァ、もしかしてそう?コックじゃなくてファックっていったとか?だったら」
「いや。コックで間違いない」
「……ああそう……」

 空気読んでそこは肯定しろよ。サンジは内心そう思ったが、この剣士め、流石に嘘は付かない。そういう心根が真っ直ぐな所をサンジは多少気に入っていたし、ここでだけ曲げろといっても無理な話だろう。臨機応変という言葉がこの剣士の辞書にはない。というかこの剣士の辞書には存在しない言葉がいっぱいだ。

「……で、まあ。おれ以外のヤツが聞いちまうともかぎらねェしああいう開放的なところでするなら、ちょっと口走る言葉に気をつけて欲しいわけだ」

 ここで「なんでだ?」などと問いかけられたら、流石にアルデンテに茹で上げて多少の強度を保っているはずのサンジの堪忍袋の尾など歯ごたえもよくブッチブチに切れてしまう自信があったが、なんと殊勝なことかゾロは少し考え込むようにしてから深く頷いたのだ。

「判った」
「……判ってくれりゃいい。……ほれ、夜食。冷める前に食えよ」
「おう」

 いい夜食、いい酒を提供できた。くだらない悩みもこれで解決した。今日は久々に自己処理をして気持ちよく眠れるはずだと満足した表情でゾロが出て行ったキッチンの中でサンジはうーんと背伸びをすると、明日の朝食の準備を済ませるべく流し台に向き直ったのだった。


「ふー、いい湯だった。……あァ、クソ剣士はもう食い終わったかな。素直に話も聞いてくれたし食器でも提げてやるか」

 風呂上り、いい気分で久々の自己処理を終え(本当に久々だったので気持ちよくてちょっと声がでた)、仏心を出してしまったサンジであったが、またしてもデジャブな現場に遭遇してしまった。

「……うっ……、サン」
「言わせねェよ!?なお悪いわぶっ殺すぞテメェッ!!」


 頭痛の種は無くなりそうもない。サンジは今日は諦めて明日から優秀で心優しいトナカイに睡眠導入剤というやつを処方してもらう事に決めた。

リリース日:2010/08/21

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