海賊狩りと恐れられたロロノア・ゾロが、どうやら同じ船に乗るコック、サンジに入れあげているらしい。と言う事実は、誰にとって幸いなのかは解らないがそれは当のサンジにしかまだ知られていない。
まず、誤解がないようにサンジが声を大にして言いたいのは、愛や恋の形は様々で、それが俗に「生産性がない」と言われる形のものでも、それは偽りのないものだと解っているし否定するつもりも毛頭ない。
レディ同士でも、野郎同士でも。その二人が幸せならそれでよいと思う。ただ、それはあくまでも第三者的視点から見たときの感想である。知識として閉鎖空間である船ではそう言うこともままあるということも知っているが、それに関わろうとは思わない。それなら己の類まれなる想像力を糧に右手を恋人にしている方がサンジの精神衛生上においても大変よろしい。
だが、件の海賊狩りの考え方はサンジとは一致しないらしい、残念なことに。ちなみに、この問題についてサンジはゾロと話し合ったことはない。どう切り出せばよいのかも解らない。ただ事実として解るのは、ゾロに生殖行為っぽい事の対象として見られているらしいと言うことだけだ。サンジは何となくそこまで考えて船縁に背中を預けた。心境的に背後を何かで守っていたかったからだ。
二本目の煙草に火をつけるのと同時に、サンジはすっと目を細める。サンジがそれを知ったのは、ゾロがマスタベって達する時にサンジを呼んでいるのを偶然、悪意なく、できれば聞きたくなかったが、聞いてしまったからだ。本人に確認してしまったので別人を呼んでいたのだとは考えにくかった。サンジは自分で自分の逃げ道を塞いでしまったのだ。職業名で呼ばれているのを容認して知らぬフリを通しておけばよかったと今になって思う。
アレを禁じてからはゾロの例の現場には遭遇していないが、どうにもサンジ本人に知られてしまったからか、ゾロは開き直ってしまっている節がある。目を覚ましたらサンジの顔を眺めているとか、今まで寄りつきもしなかったのに食事の調理中にキッチンにいるとか、何故か風呂に入ろうと思う時間がバッティングするとか、とにかく枚挙に暇がない。これだけの事が何度も起これば、流石に偶然の一言では片付けられない。ゾロはあからさまにフラグを立てにきている。
ぐぎぎ、と呻きつつフィルターぎりぎりまで煙草を吸って携帯灰皿にこすりつけて火を消すと、本当はもう一本吸いたかったがポケットの上から煙草のソフトケースを叩くだけに止めておいた。もうすぐ船が島に着く。サンジは職業柄ナミから多めの金を預かるが、自由になる金はほかのクルーと同じ程度の額だ。海賊狩りの件は非常に悩ましい問題ではあるが、サンジはサンジで健全な19歳男子である。煙草代も考えて節約しておかないと、島で楽しく遊べない。
ナミの話では滞在は三日。その間にうまいことナンパを成功させて一晩のアバンチュールといきたいところだ。憂鬱な思考に沈みそうになるのを、柔らかいレディの肌に触れることができるだろう掌を見下ろして落ち着けた。
「おい、コック」
「なんだクソ剣士」
島は、大きさの割には活気にあふれた町だった。事前調査したところによると、三日目には生鮮食品の大きな市が立つらしい。これは幸運とばかりにサンジはその旨をナミに相談し、常より少し多めに財布の紐を緩めてもらった。
保存が利くものの買い物を先に済ませ一旦船に戻り、腕まくりをして倉庫にものをしまっているサンジに声をかけたのは、目下サンジの悩みの原因であるゾロであった。本来ならば返事もせず振り返りもせずに作業を続けたいところだったが、この男に隙を見せるのに幾分の抵抗があった。缶詰を積み上げて振り返ると、入り口を塞ぎ逆光を浴びたゾロが立っている。
「金を貸せ」
「くたばれ」
話は終わった。しっしっ、とハエを追いはらうジェスチャーをすると、当然のごとくゾロが牙をむく。
「貸せっつってんだろうが!ナミから多めに貰ったの知ってんだぞ」
「No, sir. ありゃ市場での買い物のためだ。おれが自由に使えるお小遣いじゃねェ。ましてや緑化運動のための投資じゃねェ、く・た・ば・れ、以上。」
大事なことなので二度目はことさら丁寧に言ってやると、ゾロはうめき声を上げた。サンジはいい加減作業に戻りたかったのでゾロに早く出ていって貰いたかったが、ゾロは金を借りるまでてこでもここを動かないつもりらしい。サンジはほとほと困り果て、腕を組む。
「だいたい、刀鍛冶用の金はナミさんのお慈悲で充分貰ってるだろうが。バカにならないってナミさん嘆いてらしたぞ?それ以上てめェがなんに使うんだよ、酒なら市場でおれが仕入れてやるから大人しく宿で寝てろ賞金首」
「なにに使うか言ったらてめェは怒るんじゃねェか」
「金を貸せとてめェが言ってる時点でおれがすでに怒っていることに気付いてねェならお前サボテン以下だぞ」
サボテンは飼い主の心境によってトゲを増やしたり減らしたりするらしいからな、と諭すように言ってやると、顎をしゃくって先を促す。ゾロは至極言いづらそうに明後日の方向を向いて口をぼそぼそと蠢かせた。
「買うんだよ」
「なにを」
「男娼」
おっとっとっと!とサンジは内心つんのめった。それは確かに聞きたくなかった。が、言う様に促したのは自分だし、ゾロは一度忠告めいたことを言っている。怒るという感情は湧きもしないが、確かに絶句はしてしまった。
「……あ……そう……」
「言っとくがな!」
「はい」
いきなり勢い込んできたゾロにサンジは思わず敬語で返事をした。ゾロはサンジにとっては見慣れた眉間の皺を深く刻んで、ぎらぎらした目でサンジを睨んでくる。
「これはてめェの為でもある」
「……あ……そう……?」
先ほどとは同音ながら少しニュアンスの違う返事をすると、サンジは己の身体を抱くようにして軽く後ずさった。そんなサンジに一歩、一歩と近づいてゾロが言い募る。
「で、貸すのか。貸さねェのか。おれは理由を言ったぞ。あとはてめェ次第だ」
ようやく合点が行った。つまりこのマリモはサンジが自分とセックスしないから男娼を買いに行くんだぞと、サンジを脅迫している。あまりの言い分にサンジは片手で額を押さえた。他の面子に金を借りようとは考えなかったのかと脳裏に掠めた考えもあったが、そういう理由であればサンジを脅すのが妥当だろう。脅しに妥当もクソも無いが。
「おれだって金は使いたい、わかるな。煙草も欲しいしな。毎回担保もねェてめェに金を巻き上げられるわけにはいかねェ」
「……解ってる。今回だけだ」
サンジは深いため息を付いて尻ポケットから黒い長財布を取り出して、開く。
「……いくら足りねェ。おれの小遣いから出してやる」
サンジはとんでもなく情けない気持ちになりながら、金で安心を買った。島の女の子とのデートスポットにおしゃれなバーやカフェを利用することは今回は考えない方が良さそうだ。
(結局、ある程度タイプであれば誰でもいいって事だな)
サンジから数枚の紙幣を受け取ってゾロはいそいそと船を下りていった。心底ほっとしたのは、自分の心の平穏が確保されたこともだが、ゾロが自分を単なるセフレ的生き物として見ていたというのが分かった事だ。
本来であれば自分がゾロのホモセックスにおけるタイプと言うだけで噴飯ものだし、諍いが耐えぬとはいえ時には背中を預けあった仲間にそのような目を向けてくるあの男に嫌気も差したが、基本、サンジはあれを獣と同一視している。理性というものが人間様であるサンジのものとはキャパシティーが天と地ほど差があるのだ。許容するしかない。
自分が犠牲になってやるつもりはないが、強引に事に及ばないだけ誉めてやるべきなのだ。もっともそのおかげでサンジの懐はかなり寒々しい事になったが。これも犠牲といえば犠牲かと思いつつ、引き替えに得られた今のすがすがしい気分とは比べるべくも無い。
(スッキリすりゃ奴も正気に戻るだろう。その時がおれの真の自由だ)
願わくば、奴の好みの男娼が見つかりますように。大量買いして割り引きさせたトマト缶を積み上げながらサンジは心から祈った。
「サンジ君、ありがと!やっぱりサンジ君のご飯が一番だわ」
「えへへへー、シアワセー!ナミさんとロビンちゃんにケータリングを頼まれるなんてうれしいなァ」
一日目が終わろうかと言う時、船番の為に戻ってきたチョッパーが、「ナミとロビンがサンジにご飯を持ってきて欲しいって言ってたぞ」との伝言を持ってきたので、サンジは意気揚々と指定された宿に軽いオードブルと地酒を選んで持ってきた。
ナミ曰く、夕食を取ったはいいがどうにも口に合わなかったらしい。サラダだけで済ませて部屋に戻ったがどうにも口寂しいので、軽いものでいいから一緒にお酒でも飲みながら食べない?とのことだった。体よく使われていることは勿論分かっているが、それがサンジの至極の幸せである。船に残るつもりだったサンジにとっては美女二人に囲まれての軽い飲み会はまさに天国であった。
「そういえば、ゾロもここに泊まっているみたいね。あいつもここのご飯食べたのかしら?」
「宿代に食事も含まれているから、食べたんじゃないかしら?」
口にあったかは知らないけれど、とロビンが付け加えるとサンジは微妙な表情になった。安いホテルだから、食事が充実していないことはさほど不思議ではないが、それよりもすっかり忘れていたゾロの存在を思い出させられ、しかもそのゾロがたった今何をしているかを考えてしまったのだ。好みの男が見つかっていればの話だが、今頃ゾロは。
「ふー、おなかいっぱい!サンジ君ありがと。そろそろ寝るから帰っていいわよー」
「つれないナミさんも素敵だー!それじゃ、また明後日。ロビンちゃんも読書で夜更かししないようにね」
「今日はコックさんの温かいお茶がないからすぐ眠れるか分からないけれど、気をつけるわ」
リップサービスとはいえ嬉しい言葉を聞いてサンジはへらりと笑うと天国を後にした。さて、後は何食わぬ顔で船に戻るだけだ。この宿のどこかでマリモ頭がサンジが渡した金で何をしているかは考えないようにしたかった。マリモがあんあん喘ぐ所など考えるだけでオナニー現場目撃よりも立ち直れない気がしたので。
不意に、ヘブンズ・ドアから十数歩先、部屋にしてナミとロビンの取っているツインから4部屋離れた部屋のドアが開いて、サンジはさりげなくぶつからないように廊下の端に体を避けた。出てきたのは茶髪の細身の男だった。サンジより幾分背が低く、纏う空気がどこか剣呑。かかわり合いになる理由もないが、値踏みされるように見られる理由もない。サンジは眼をくれ返してやると、ポケットに両手を突っ込んでドアを開けたままサンジを見ている男の部屋を通り過ぎようとしたのだが。
(うげェ!!)
視界の端に映ったその男の部屋のベッドに横たわっているのは、このホテルで今もっとも出会いたくない男であった。つまり、サンジをねめつけていた男は、つい先ほどまでマリモと。
(うげェ……)
サンジは再び心の中で呻いた。救いなのはこの男娼と思わしい人物とサンジは似ても似つかぬタイプだったことだ。金髪だとか着衣がスーツだとか目が青いとか隠れているとか眉が巻いているとか色が白いとか、とにかくサンジを構成する要素と男の特徴は一切一致しない。やはりタイプの問題であってサンジ一人に固執しているわけではないのだ。一安心してサンジはポケットから片手を出して昇降機のボタンを押した。
「あんたさ、麦藁のコックさんだろ」
「……あァ?」
乗ってくるなと願ったサンジの思いは生憎と叶わず、男は密室となる箱にぎりぎりで駆け込んで乗り込んできた。どうにかして話さずに済めばいいと思っていたが、それも叶わなかった。ガラ悪く聞き返すが、男もそれなりに場慣れしているのか怯える様子もなくサンジを上目遣いでみてくる。
「おれを買わない?」
「はぁ?」
先ほどから疑問符の声しか出てこない。一言目は「何の用だ」との意図を込めての疑問符だったが、二言目は本当に意味が分からなかった。この男は先ほどまでゾロと、あれだ。深くは考えたくないので言葉にするのはやめておくが、そう言うことをしていたはずなのではないのか。しかもサンジの金で。
「生憎と野郎を買う趣味はねェ」
「タダでいいって言ったら?」
「それでも全力で遠慮させて貰う」
「おれ、タチも出来るよ?だからロロノアにも買われたんだし」
「……?」
「おれがあんたを抱いて気持ちよくしてあげるよって事」
チン、とエレベーターがフロントロビーについた。全くもって冗談ではない、この不愉快なお誘いはいったいどういう事だ。サンジは口元に笑みを張り付け相手が素人であればハズしたことのない人相の悪い眼を飛ばした。さすがの男もびくんと肩を跳ねさせてエレベーターの箱に張り付く。
「蹴り殺されたくなきゃ失せろ」
「……っ、んだよ、アンタもロロノア・ゾロも!ここまでコケにされたのは初めてだ!こんな金……ッ!」
いきなり逆ギレしだした男にさすがに面食らったサンジだが、投げつけられた紙幣の折り目や色あせに何となく見覚えがあった。サンジの記憶力が確かであれば、これはもともとサンジの金だ。ゾロに渡した額よりも多いから、奴が出した分も含まれているのだろう。
「冷静に考えろ、クソ野郎。ロロノアはロロノア、おれはおれだ。おれとてめェはこのクソホテルであったばかり。てめェはおれに押し売りをしようとして、おれはそれを断った。で?おれにこの金をどうしろってんだ?」
「ごっ……ゴメ……でも……」
「あー、男がグズグズ泣いても美しくねェんだよ。話付けてェならクソマリモの部屋に戻ってナシつけて来いよ。痴話喧嘩におれを巻き込むな」
頼むから。言いながら落ちた紙幣を拾い上げて男に手渡すが、男は頑として受け取ろうとしない。
「下賎な商売だといわれてんのは分かってる、けど、おれにだってプライドがある」
「職業に貴賤はねェさ。おれにその気がねェだけだ」
「ごめん。あんたは何も悪くない。ただ……その金は受け取れない。おれはロロノア・ゾロと寝てない上に、勝手に切り上げて出てきた」
なんだと、とサンジは眉間に皺を寄せた。もしそれが本当なら、いったいどういう事なのだ。サンジの安全は確保されていないのではないか。あの男、何のためにサンジから金を巻き上げたのだ。ゾロはわざわざ「タチも出来る」というこの男を「選んで」買ったのだ。けれど、ゾロはこの男に抱かれなかった。
「おれに声を掛けてくれたのがあんただったら良かったのに。あんたいい男だし、抱くのでも抱かれるのでも良かった」
「その気はねェって言っただろ」
「じゃあかわいそうだね、アンタ」
何の話だ、とサンジは呆れて肩をすくめたが、男はロビーから走って出て行ってしまった。苦労をしているのか老けているように見えたが、本当は見た目より若いのかもしれない。小柄な後ろ姿を眺めてサンジは付き返されてくしゃくしゃになってしまった紙幣を見下ろしてため息を吐いた。これを素直に受け取ってレディとの楽しいひと時の軍資金にする気には流石になれなかった。どうやら再び昇降機に乗る必要があるようだ。
「おいマリモ」
嫌々先ほどのフロアに戻ったサンジは先ほどのドアを見て顔を顰めた。半開きのままだ。どれだけ無用心なのか。重みというものを感じさせないこのドアを備え付けたこのホテルにも微妙なものを感じるが、もう少し賞金首としての自覚を持って欲しい、そう思いながら中に足を踏み入れてドアだけ閉めた。無用心さについて心の中で言及しておいてなんだが、自分の逃げ道は何となく確保しておくべきだと思った。何しろ安全を買ったはずの金は、色つきで自分の手の中にあるのだ。
「おい」
ゾロはベッドでうつ伏せになり顔を横に向けて眠っている。このままゾロに踵を落とすのは実に容易なことだし、実際そうしたくてたまらなかったが、普段のように蹴り起こすわけには行かない。ゾロの身体よりもベッドのほうは頑丈には出来ていないのだ。質は悪そうだといえシングルベッド一台分を弁償させられるのは困る。仕方がないので足を持ち上げてマリモ頭をぎゅっと後頭部から踏みつけて、横に向いていた顔を巧みに枕に押し付ける。後は数十秒、もしくは数分待てば窒息マリモの出来上がりだ。
「………ぶあぁぁぁああっ!?」
「よう、起きたか」
「殺す気かてめェ!!!」
「そんなつもりはちょっとしかねェ」
「ちょっとでも殺意抱くなアホコック!!」
それはどだい無理な話だと思いつつ、窒息しかけてがばっと起き上がったゾロを踏みつけたままにしていた足を床に下し、サンジはポケットに折りたたんで入れておいた先ほどの金を取り出して、サイドボードの上に置いた。ゾロはまだなにか言いたそうだったが、そもそも何故このホテルにサンジが居るのかという疑問が沸き立ったらしくベッドの上に胡坐をかき、サンジが何かを言い出すのを待っていた。
「どういうことだ」
「あぁ?」
「おれから金巻き上げといて、世話にはならなかったそうじゃねェか。男娼」
「……はァ?」
何を言っているのかわからない、とゾロは何度も疑問符の音を漏らす。サンジもおかしいな、と思い始めて腕を組みながら威圧的にゾロを見下ろすと、単細胞生物にも理解できるように言葉を切りつつ尋ねる。
「偶然この部屋から出てきた男娼に、てめェには抱かれなかったからと、金を突っ返された。何故ヤツがおれに金を返したかも、何故てめェがあの男と寝なかったのかも、理由がわからねェ。おれが何のために金を出したと思ってんだ?」
「あ?……あぁー……あー、あー。あぁ。」
「何か納得したらしいな。納得したなら説明しろ」
サンジの丁寧な説明口調にもはじめは首を傾げていたゾロだが、ようやく目が覚めてきたのか何度か頷いている。その納得を出来れば分けてもらいたいもんだと煙草に火をつけた。見回しても灰皿が無いからもしかしたら一丁前に禁煙ルームを気取っているのかもしれないし、食事の質も悪けりゃサービスも悪いだけかもしれないが、知ったこっちゃ無い。煙草が必要だった。
「なんであの男娼がてめェに金を返したのかわかんねェが、たぶん途中で帰ったからだ。おれァちゃんとヤツの世話になった。だからてめェも安心しろ」
男娼を買って、でもセックスはしなくて。世話にはなっていて、でも男娼の矜持を傷つけて。ゾロの目的とは一体なんだったのだろう、聞いてさっさと納得したいような、このまま聞かずに「ああそう、じゃあこの金は利子ってことで全額貰うから」と踵を返してもいいような気もしている。不意にデジャブを感じた。これは、ゾロのマスターベーション時の発声内容について言及するかしないか悩んでいたときの心境と似ている。
であれば答えは「聞かない」が正しい。なぜならサンジは件の一軒をこの剣士と話し合った事を酷く後悔していたからだ。これを聞いてしまえば、また後悔する気がする。
(……おれは学習する男だ)
「ああ、そう……じゃあ」
「ちゃんと、プロに教わったからな」
「なにをだ」
全部言い切る前に自信満々に言い放ったゾロに、間髪いれずに突っ込みを入れてしまった。ああ。サンジは頭を抱える。学習はしても本能には逆らえない。馬鹿にツッコミを入れるというこの己の売られた喧嘩は買っちゃう体質。恨むべきは自分だ。サンジはさめざめと泣きたい気持ちになりながら碌な内容ではないだろう先を促した。
「男同士でもヨくなる方法だ」
「へー。何なら実地で教えてもらや良かったんじゃねェの」
自身たっぷりに言う男は、それでもタチもできると自称した男娼に掘られた様子は無い。想像をできるだけしないように心を無にしながら抑揚無く相槌を打つとゾロは思った以上に大きく反応した。
「馬鹿か!おれは決めた相手以外と契るつもりはねェ」
なるほど、とサンジは眉間に中指を押し当てて一旦黙った。男娼の矜持を傷つけたのは多分コレだ。ゾロが男娼に同じ事を伝えたかどうかは知る由も無いし今更問いただそうとも思わないが、男娼を買った男にそのような事を言われて手を出されなかったのであれば腹も立つものかもしれない。
ただしそれでも男娼の心境が想像できなかったので、自分の料理に置き換えてみた。金だけ出して料理をサーブまでさせといて、「おれは母親の作ったモンしか食わねえ」とレシピだけ聞いて帰って行かれたような。あ、確かに腹が立つ。
「まあ、おれはどうでもいいけどよ、てめェの身持ちが固かろうがなんだろうが。おれの知らねェ世界だ」
この筋肉マリモ相手に処女という言葉は使いたくなかったのでまろやかに回避させてもらったが、とにかくまだ疑問が全て解決したわけではない。男娼を怒らせた理由はわかった。しかしこの男の目的は、所謂男同士の行為で気持ちよくなるための情報収集であったというわけだ。そしてサンジは、はたと身を硬くした。
―――言っとくがな!これはてめェの為でもある
確かサンジから金を巻き上げようと言う時、そんな事を言ってはいなかったか。ゾロは男娼と寝なかった。その理由は決めた相手以外とはそのようなことはしないから。ただし、聞くことは聞いてちゃんとリサーチした。「サンジのためにも」。
サンジは何もかもを理解して青ざめた。自分の欲求を発散してサンジに手出しをしないという「お前のため」ではなかった。一旦手元に戻ってきたとは言え、サンジは、サンジが金を出したのは。ゾロが、サンジと、セックスをしてお互いが気持ちよくなる方法を学習をするため、だったのだ。
うわわわ、わわわわわわ。サンジが達したあまりといえばあんまりな結論に叫びだしそうになった時、ゾロもまた青ざめていた。
「オイ、その言い草」
「……あ?」
「てめェ」
「んだよ、言いてェことがあるならさっさと言え!!」
おれは大声を上げながらここから走り去りてェんだよ!!と並大抵の人間ならおしっこちびりそうな人相でゾロををねめつけると、ゾロは悲壮感たっぷりの掠れた声でベッドから降りながら後ずさるサンジの二の腕をがっしと掴んでサンジの顔を覗き込んだ。
「て、てめェ、もう、誰かと」
「あ?」
「経験、あんのか」
はいー?とサンジは逃げ出そうと身体を半分ひねったような微妙な姿勢で腕を捕まれて変なポーズになりながら頬を引き攣らせた。サンジはもう2年ほど前に年上のおねー様にリードされながらそれはもうシアワセな初体験を済ませている。そのおねー様はもうその翌年に結婚をしているのでサンジのその恋は静かに終わったわけだが、それでも素敵な思い出だ。サンジは呆れて肩を落とした。
「……人をラブコック呼ばわりしといて、てめェはおれがそういう経験ねェと思ってたのか?」
ガン、と雷に打たれたようにゾロは身体を硬直させて、いかにもショックを受けています、とでも言いたげにくずおれた。スリラーバークで見たことのある見事な失意前屈体であった。なんだか可哀想なくらいだった。もしかしたら、とサンジはここから逃げだすのを考え直して、にたァ、と笑った。
「おれァ使用済みだ。ご期待を裏切る様で悪ィがな」
「……」
「よってお綺麗なてめェとのお綺麗な「契り」は出来ねェワケだ、わかるな。その言い方だと未使用同士じゃなきゃあだめなんだろ、その契りってなァ」
「……おれの故郷ではそうだ」
故郷バンザイ!!!サンジは名前だけ聞いたシモツキ村にお歳暮を送りたいくらいに感謝した。ゾロがプロの手ほどきを受けるために自分の大事な小遣いを謙譲してしまったサンジであったが、コレは起死回生の展開だ。サンジの安全は守られた。聞く気も起こらないが、たぶん「故郷の風習なんか関係ねェ!」とか言い出さないのは、故郷がよっぽど大事か、さもなければ誰かとそうやってしきたりに従うことを誓ったりしたか、とにかくこの事実は曲がらないのだろう。
「まァ、おれほどの男が早々見つかるとは思わねェが、いつかお前好みの綺麗な体の奴が」
「いねェ」
「あ?」
「……そんなのは、いねェよ」
そう卑屈になるなよ、と声をかけられなかったのは、失意前屈体から立ち直って床にあぐらを掻いたゾロがあまりにもまっすぐサンジを見上げてくるからだ。ただ、いくらゾロを哀れに思ったところで失った童貞は戻りはしないし、もし戻ったとしてそれをゾロに奉げ直す道理も無い。
「大体だな、ゾロ」
「……なんだよ」
「たとえおれが童貞で、てめェが処女だったとしてもよ。……おれァお前には勃たねェよ」
「あァ!?」
ゾロは変な声をあげた。そんなにおかしな事だろうか、とサンジは軽く引く。だって自分はストレートなのだ。女の子相手でしか性的には興奮できない。だがゾロの怒りの矛先はどうやらその辺ではないらしい。ゾロは続けて何かを怒鳴ろうと大きく口を開けたが、考え直すようにして閉じ、忌々しげに声を低くしてゾロは続けた。
「……おれはてめェのきもちを考えてなかった」
「……!?」
今更すぎるが、それでも殊勝な台詞が怒鳴ろうとした顔のゾロの口から飛び出て、サンジは正直飛び上がるほどびっくりした。しかし、ゾロの口からはどんどんとらしくない言葉が出てくる。
「てめェも男なのにな。考え方が一方通行だった」
「わ……解りゃいいんだよ……解りゃ……」
自分の望んだ展開だというのに、サンジはなぜか落ち着かない。なぜなら地べたに座っていたゾロがいつの間にか立ち上がってサンジに詰め寄っていたからだ。両手をつきだして互いの顔の適正距離を保ちながら、サンジは半笑いを浮かべた。
「コック」
ゾロはニヤリと笑っている。サンジの背筋をいやな汗がつっと流れたが、ゾロの言葉は止まらない。
「てめェ、おれに突っ込みたかったんだな」
「……?」
そりゃあ、この天然ボケアホクソホモ童貞マリモはツッコミどころ満載だ。ボケツッコミ両用型であるサンジにとってそれを放置することは苦痛にも等しい。だが、今の状況での突っ込む突っ込まないと言う動詞は、抱く、抱かないと言い換えられるはずだ。
てめェ、おれを抱きたかったんだな。そう、脳内インタプリタがゾロの言葉を通訳した。そしてサンジは憤死するんじゃないかとどこか冷静な自分が居るのを感じながら、胸を膨らませて息を限界まで吸い込む。
「どこを!どう!解釈したら!!そうなるんだよ!!!!?」
「さっきてめェ、てめェが童貞でおれが処女なら、という例え話をしただろうが。そりゃおれに突っ込むって話だろ」
「そりゃそうだが、おれとセックスしてェのはテメェだろうが!おれはできねェっつー意味で例え話をしたんだ、だまされねぇぞおれァ!!」
自分の過去の発言をいいように解釈して摸造しようなどマリモ頭のくせに片腹痛い。頭脳派料理人をナメて貰っては困ると噛み付くと、ゾロはサンジの怒鳴り声を否定するではなく頷いた。
「あぁ、そうだな。おれはてめェとセックスしてェ。」
「だが、てめェの村のしきたりってモンがあるんだろう。しきたりはしきたり、ちゃんと守れよ」
「あぁ、守るさ。てめェとな」
ゾロはサンジに理解できない、いや、言葉として頓狂な事を言っているのは理解できるが、何故そんな事を言うのかこの男が狂っているのでなければさっぱりわからない言葉を繰り返してくる。そろそろベッドが壊れるだの部屋が壊れるだのを気にせずこの男を蹴り飛ばしてさっさとこの部屋を去るべきだ。サンジの本能がそう告げているが、それがなかなか出来ない。心情的にもだが、物理的にもだ。捕まれた腕がそろそろ痛い。
「おれは最初っからてめェを抱きてェと思ってたんだよ。おれが突っ込む側、てめェが突っ込まれる側。てめェがまさかおれに突っ込む気でいたのは想定外だったが」
「……あァッ!?」
「てめェは使用済みだっつったな」
「そうだ。二年も前にお美しい年上のレディと素敵な夜を過ごしたぜ?」
「じゃあ、しきたりはしきたりだ。おれのケツは確かに未使用だが、てめェは童貞じゃねェからな。後はもうおれがてめェのケツに突っ込むしかねェ、残念だったな」
いや残念とか。サンジにはもう二の句が告げなかった。心の何処かで考えないようにしていた事を真正面からぶつけられて何度も目を瞬かせる。サンジだってオスだ。セックスといえば自分が突っ込むほうだと普通に考える。「サンジの気持ちを考えておらず考え方が一方通行だった」とゾロが反省したのはその点だけであるらしい。タチが出来る男娼を買ったのも同じタチ視点のテクニックを学ぶ為だ。サンジがケツにチンコを突っ込まれて気持ちよくなるように。サンジは乾いた笑いを漏らす。
「おれはなクソコック。てめェなら、まァ、一億歩譲って抱かれてやっても良かったんだがしきたりじゃしょうがねェよな」
「何そのクソ上から目線。おれァ最初からてめェとの性交そのものを断ってるんですけど」
「で、だ」
「聞けよ人の話!!」
ちっとも会話がかみ合わない。だがゾロはまたぐいぐいと詰め寄ってくる。再び両手を前に突き出すが、ゾロは遠慮せずにサンジとの距離を詰めた。掌がゾロの胸板に当たり、そのまま身体ごとぶつかられて思わず後ずさって背中が壁にぶち当たり、ぴんと張った肘が曲がる。手を突っ張って押し返そうとするが、この力だけが取り得の男の取り得部分が偉く張り切っているようでびくともしない。
(……あ?コイツ……)
「てめェは前は使用済みだって話だが、後ろは未使用なんだろ?」
サンジは手を突っぱねたままゾロの顔をまっすぐと睨み返した。ゾロも真っ向からサンジを睨みつけている。返答次第ではコロスとでも言いたげな顔だが、人を殺しそうな顔なのはいつもの事だ。ここで「ハズかしいから黙ってたけど後ろも使用済み」と吹かしてやれば、また失意前屈体になって今度こそサンジの事を諦めるだろう。それでサンジの大勝利だ。ゾロはシモツキの掟だの仕来りだのに縛られて、サンジには手も足もでなくなる。めでたしめでたし、だ。
「どうなんだ、クソコック」
安穏と暮らしていく為に自分がなんと言えばいいか解っている。サンジには、解っていた。
「答えろ、コック」
サンジは口を開いた。
「―――そうだ」
正直に答えてしまったのは、けして、剣士の胸に触れている突っぱねた掌から伝わってくる小動物よりも早い鼓動に絆されたのではない。クソ剣士相手に「おれはケツを野郎に掘られたことがあります」と嘘でもいうなどプライドが許さない。プライドを捨てるくらいなら死んだほうがましだったからだ。
その結果ゾロの顔が目に見えて緩み、ここの所見たことのない満面の笑みを浮かべて「そうか」などと抜かすのにとんでもなく腹が立ったので、ゾロの金的に膝を一発入れて、自分が出した分だけの額の金を鷲掴みにして部屋から立ち去った。失意前屈体は見ることが出来たが、自分の安全は保障されてなどいない。むしろもっと危険になったと思ったほうがいい。クリーンヒットした膝が原因でいっそ不能になっていればいいと思った。
―――かわいそうだね、アンタ。
サンジに営業をかけてきたあの男娼の言葉がふと脳裏に蘇った。まったくだ、と同意する。
さしあたって満額帰ってきた自分の小遣いだが、とてもではないがこんな気分でレディをおしゃれなバーやカフェでうまくエスコートできる気がしなかったので、普段だったら絶対に手を出さない高い酒を買って船に戻った。いつか、真の平穏が自分に訪れた時に祝杯を挙げよう。サンジはそう自分を慰め、痣が残っているかもしれないと思うほどにまだ感触が残っている、ゾロに捕まれた腕を一撫でした。
リリース日:2010/10/03