サンジの作ったおやつを食べ終わった面々は、さっそく島に聞き込みをするべく出発することにした。チョッパーは今日の船番であるウソップが戻ってくるまで待っていると言う事だったので実質のメンバーは四人、ロビン、ナミ、ゾロ、そして当事者であるサンジだ。
さて出かけるかという頃になって、ナミとロビンは目の部分だけが出る様なフードを被って出てきた。一度街に降りた時に付けている人を見かけた事のある、ロビン曰く未婚の女性が付けなければならないと言う黒い衣類だ。
「女性蔑視も大概にしろって思ったけど、これはこれで顔が目立たないからあたしたちみたいな海賊にはむしろ都合がよかったのよね。サンジ君もこんなことになってるって判ってたらもう一着拝借してきたんだけど……」
「拝借ってナミすゎんどこから……でもミステリアスな君も素敵だァ!」
アラバスタで着ていた服に似ているが肌の露出が手と目以外一切ない。サンジは残念そうにしていたが、しかし今見えない分隠された部分のエロスがなんとかかんとか言っている。ゾロに言わせればそのセリフをそっくりそのままスーツ姿のサンジに当てはまるのだが、余計なことは言わぬが花である。特に何を考えているのか判らないロビンの前では。
「でね、サンジ君。お願いがあるんだけど……」
「ナミさんのお願いならなんなりと!」
「良かった! じゃあわたしとロビンは引き続き二人で行動するから、サンジ君はゾロと夫婦のフリで調査をお願いね!」
「畏まり……え!?」
ラジャー、のポーズをとったままサンジが止まった。腕を組んで悶々としていたゾロはナミの話をあまり真面目に聞いていなかったので、サンジの動揺した声にこそ驚いて顔をそちらへ向けた。
「別に夫婦じゃなくてもいいの。肌を出している未婚女性はこの島では共有財産と言われているの。とどのつまりが娼婦という事……聞き込みをするには何かと不自由が多いのよ」
「んなっ!? だ、大丈夫だったのか? さっきまでナミさんとロビンちゃん二人で……」
「そりゃ多少は不愉快な目には合ったわよ。でもロビンが止めるからこれで勘弁してやったの」
言いながらナミが出す手のジェスチャーは所謂チャリンチャリンと音のしそうなアレの形だ。あァ、と多少は納得しつつもサンジはまだ憤懣やるかたない態度で地団太を踏んでいる。
「おれがついていってりゃ……!」
「これがこの国の宗教であり文化だから、できる限りは尊重しなくては。……コックさんに、剣士さんと夫婦のフリをしてほしいと言うのもそういう事なの。コックさんも自分で調査をしたいでしょう? 自分の身体の事だもの」
「もちろん」
「けれど、コックさんは今は女性。みだりに男性に話しかけてはいけないのよ」
むむ、とサンジは唇を尖らせた。朱をひいていない唇は薄桜色で、それは女でも男でも一緒なんだなとゾロはぼんやりとそれを眺める。
「夫、もしくは婚約者と同席しているなら、女性から男性に話しかけてもいいって事らしいのよねー。サンジ君もあたしたちと一緒に来て女性への聞き込みを手伝ってもらってもいいんだけど、サンジ君が女の子を口説いたら同性愛のタブーに触れるし、ゾロが一人で聞き込みってのもね……」
馬鹿にされている。濁された語尾からひしひしと真意を悟ったゾロだったが、そこに下手なツッコミを入れるのはやめた。何を言っても無駄だと思うのと同時に、サンジと一緒に行動する流れになっている所をわざわざ阻害することもない。
身体の調子は良好で、動かし方も慣れてきたとはいえ生まれた時から女だったナミとロビンより今のサンジは危なっかしい。自分がついていてやらねばならぬだろう。
「……ナミさん。婚約者のフリってのは別にくっついたりしなくてもいいんだよな? 一緒にいるだけで」
「うん、ちょっと手をつないでれば大丈夫よ」
「手ェ!? このおれの手をこのクソマリモと!?」
「そう。……あ、でも喧嘩はダメよ」
無理無理無理、と連呼しているサンジがあっさりスルーされている。赤くなったり青くなったりしているのを尻目に最後の一言だけ自分に向けて言われたが、心外だとばかりに肩をすくめる。
「女相手に喧嘩なんかできっかよ」
「何だとてめェ……」
ゾロの言葉を挑発として受け取ったサンジがゾロの胸ぐらを掴もうとして高さ的にそれができず、腹巻の下のシャツが引きずり上げられるだけに収まる。普段だったら額をガツンとぶつけ合うくらいの距離でにらみ合うのに、ちんまりした頭のてっぺんが見下ろせる。
それでもぎろりと睨み上げてくるサンジの凶悪な目つきだけは変わっていなくて、少し安心した。
「コックさん?」
「……はい」
喧嘩はダメと言われた矢先のそれにロビンが一声かけると、サンジははっと我に返ってしおしおとゾロのシャツから手を離す。
「まったくもう……それじゃ、あたしたちは行くから。あとサンジ君、スーツはダメよ! スカートじゃなくていいからいかにも男装って感じにならない服で出かけてね」
腹巻の位置を直していると、ナミは呆れた様子で頭を抱えてから、サンジにもう一つ注意をしてタラップを降りて行った。もうポーズをとる元気がすでに無くなっているらしいサンジは、はぁい……と小さく返事をして、自分のスーツを見下ろしてため息を吐いた。
「剣士さんもあんまりコックさんを刺激しないでね」
くすくすと笑いながらロビンはナミの後を追ってゾロの横を通り過ぎる。
「嬉しいのは、判るけど」
「てめ……っ!」
ゾロにだけ聞こえる様に呟かれた一言に過剰に反応してしまうと、サンジが不審げに二人を見る。しかしロビンは能力を使ってさっさと船を下りてしまったので、残されたのはこれから仮面夫婦を演じる事になるゾロとサンジの二人だけであった。
「……ちっと着替えてくる」
「……おう」
無心になる為か感情の浮かばない能面のような表情のサンジの手首を掴み、ゾロは昨日歩いて回った街をサンジとともに歩いた。まずは市場に聞き込みをしたいと言うサンジに、たまに右、とか左、とか指図されるのでその通りに歩くと何故か目的の場所についているのが不思議でならないのだが、それより掴んだ手首の細さとか温かさとかそう言ったものに気を取られてしまってゾロもほとんど頭が働いてはいなかった。
サンジがこんなことになってしまう前まで、サンジの手には触れた事がなかった。彼が自分の手を大事にしており、武器として使わないようにしている事は勿論知っていた。だからという訳ではないが、触れるのはこれが初めてだ。
「……っいってェよ、馬鹿力」
「お、おう」
思わず力が籠ってしまったらしい、手を離しかけて人目があることに気付いて手を握り直す。そのせいで手首を握っていたのに手の甲側から握る感じになってしまった。今更握る位置を変えるのも意識しているみたいで不自然だし、ゾロは何気ない風を装ってそのまま歩き続ける。自分の荒れに荒れた手でも判る滑らかな肌。
遠目で見ていた時には自分のとそうサイズが変わらないか、掌は自分より小さくて、指は自分よりも長いかもしれないと思っていたサンジの手が、すっぽりと手の中に納まってしまう。
男の時よりもおそらく柔らかい。下手をすると握りつぶしそうだ。
「……クソコック。市場に何の用なんだ? てめェの身体が戻るまで島からはどうせ離れられねェんだ、買い出しでもねェだろ」
「一騒動済んで穏やかに買い物して次の島をめざせればそれに越したことはねェが、何でも最悪のケースは想定しておくのがプロの仕事だ」
確かに、船長ルフィの人柄か、感謝されながら島をあとにすることは多い。しかし札付きの海賊の身である以上、毎回快く送り出されて出航できる保証もない。サンジの主張はもっともだ。
しかし今はまだログすら溜まってはおらずなにがあろうと島は出られないし、一番大変なのは自分の身だろうに。
ゾロの沈黙の意味をどう解釈したのか、サンジは気分を害したように下唇を突きだしてポケットから取り出した煙草を咥え、それを上下に揺らしながら皮肉げに笑った。
「お手々繋いで気にくわないコックと買い物デートってのが不満なのは解るがよ、おれだって考えなしに市場目指してんじゃねェ」
「あ? おれは別に……」
「見ろ。ナミさんやロビンちゃんの言うとおり、一人歩きしているレディは皆黒いフードを被ってる。これだけ普及してる衣類なら市場で古着でも買えるんじゃねェかと思ったんだよ」
あのフードさえ手には入れば、ナミやロビンのように単独行動ができる。そうすればゾロとこうして手を繋いで歩く必要もないというわけだ。ゾロは再び黙り込んだ。この無防備なのをフードをつけたからといって野放しにしていいものか。
きょろきょろと落ち着かなくあたりを見回してはゾロとつないだ手を横目に見て目を伏せる。その小さな頭を両手でつかんで丸のみにしてやりたい。
男と二人で居れば、所謂「お手付き」という事で娼婦扱いをされなくなるということはナミの言うとおりだったが、それでも「若い女が素顔を晒している」という事自体が珍しいのかなんなのか、そこらの男衆がちらちらとサンジを見ているのが判る。
「……お前、あんま先へ先へ行くな。おれの後ろ歩いてろ」
「あァ? てめェが先歩いたら目的地にたどり着けるのは日が暮れた後になるだろうが」
何いってんだ、と馬鹿にした口調で言いながらサンジはゾロの言う事に聞く耳を持たずようやく視界に入ってきた市場の賑わいに向けて歩調を早めた。手を引っ張られるゾロを情けないものを見る様な視線で遠巻きに眺めてくる連中のヒソヒソ話が心底うっとおしい。しかし、サンジの勢いを削ごうとちょっとでも力を入れて腕を引いたら壊してしまいそうで、まったくこの男……今は女だが、こいつは厄介なことこの上ないと思いながらゾロは舌打ちをして足を速めた。
「……クソ……酒も飲めやしねェとは……」
酒場でつまらなさそうにオレンジジュースを啜りながら頬杖をついているサンジは、結局市場でフードを手に入れる事が出来なかった。それどころか女の飲酒は禁じられているので最初は酒場への出入りさえも渋られたほどだ。これほどの目に合ってもこの辺の戒律はまだ緩い方らしく、サンジは「信じられねェ」と何度も繰り返した。
「この島の連中はほろ酔いのレディの色っぽさを知らずに死んでいくんだな……」
その分普段は隠れている女の鼻とか口を見るだけで興奮できるんだから安上がりだろうと、オレンジジュースでクダを巻くサンジを見ようと微妙に背伸びをしてみたりしている酔客どもからさりげなくサンジを隠す位置に椅子をずらしつつ、ゾロは自分には何の躊躇もなしに差し出された地ビールを呷ってから呆れ交じりに呟いた。
「ナミとあの暗黒女が二着しか用意できなかったモンが市場に売ってるもんかよ……」
「そりゃ市場を探し回った結果として得た結論だろうが! 知ったような口利きやがって」
市場で古着屋はあったものの女物はほとんどなく、何故かと尋ねたところ、女の服は代々母親がつくろうもので、フードはその代表格。ただ黒いだけのフードに見えて、裏地にはそれぞれの家独特の刺繍がなされているものらしい。この島の宗教を厭うて出て行った若者も居ないではないだろうが、勘当の意味を持ってフードを含めた衣類は全て焼き捨てられるらしい。それほどに重要な意味を持つフードなのだ。
ナミとロビンが入手に苦労したのも頷けるし、彼女らのフードの元の持ち主の気持ちを考えるとなかなかにやるせない、とサンジは呟いた。
「しかし、手ぶらで帰るわけにもいかねェ。おいゾロ、野郎連中にちょっと聞き込みしてこい」
「あァ? なんでおれが……」
この席を離れサンジを一人にする訳にはいかない。眉間に皺を寄せて言うと、サンジは唇を尖らせて苛立ちも露わにテーブルの上を指先でトントンと叩いた。
「おれから野郎に話しかけるのは問題があるんだろうが。ロビンちゃんが話してくれたフェアゲーベンの伝説……あの中で、女同士のカップルの片方が野郎になっちまったって言う話が気になってる。現地では実際その話がどういう扱いになってんのか知りてェ」
ぴく、とゾロの山形の眉が持ち上がった。サンジの身体の異変はそもそもゾロによるサンジへの思いが高じてこうなったかもしれないのだと言う可能性について失念していたわけではないが、改めて本人から言われて再びゾロの中の僅かばかりの罪悪感が首を擡げた。
仕方ねえな、と立ち上がって空のジョッキを持ちカウンターへ向かう。人の気も知らずに、わざとらしいことこの上ないのにこめかみが痛くなるほど可愛い仕草で小さく手を振って見送ってくるサンジが憎い。
「おい、おかわりくれ」
「あぁ、はいはい」
スツールに座ってカウンターテーブルにジョッキを置くと、煙草を吸いながら新聞を読んでいたバーテンが椅子から立ち上がって近寄ってきた。目が少し泳いだのは、サンジが一緒にいない事を確認したからだ。
「外の女は気が強くてかなわないね」
ジョッキにビールを注ぎながらバーテンが言う。
酒場に入ろうとしたサンジを一度は追い返そうとした、と言うかあくまでも親切心からやめておいた方が良いのでは、とアドバイスして思いっきりサンジにすごまれたのがこの男だ。
女に凄まれて腰が引けてしまったのが軽いショックだったのかもしれないが、あれは本来海軍でもチビらせるくらいのキレ顔を見せる事もある武闘派海賊コックなのだからして、一般人がショックを受ける必要はない。
もっともそんな慰めをしてやる必要も義理もゾロにはなくて、肩を竦めるに留めた。
「そんな所も気に入ってる」
「確かにソレを差し引いたって許せるくらいの美人だけどな。兄さんも大概面食いってやつだね」
美人、と聞き慣れない言葉に思わず横目でサンジの方をみる。全体的に小さくなり丸みを帯びたものの、遠目かつ目を細めて見ればほとんどいつものサンジとかわらない外見だ。
何見てんだコラとでも言いたげに睨んでくる顔は、まあ、可愛いと言えなくもない、が。
サンジのみてくれに惚れたつもりはないし、女にクネクネしているときのすごい崩れっぷりを知っているゾロにしてみれば、あばたもえくぼというやつであの暴力コックが可愛く見えるものだと思っていたのだ。
「……ありゃそんな風に見えるか」
「女性の顔を見慣れてないからと言われればそれまでだけど、白い肌に綺麗な金髪。しまった腰つきに、態度は乱暴だけど背がピンと伸びてどことなく優雅な立ち振る舞い。文句なしに美人じゃないか」
あれを可愛いと思っているのは自分だけで、周りの輩がジロジロ見るのは顔を出した女が珍しいだけだと思い込んでいたが、どうやら違ったらしい。
誇らしいような、苛つくような、落ち着かない心持ちだ。ますます一人にはしておけない。急ぎ聞き込みをすべく、ゾロは差し出されたジョッキを受け取り一気に半分ほど飲み干してから椅子に戻ろうとするバーテンを呼び止めるべく尋ねた。
「しかし、ここらへん戒律の縛りが緩いってのは本当かよ?」
「そりゃそうさ、厳しい地域じゃあ酒場ってな業種からしてタブーだぜ。……ああ、彼女さんにお酒を出さなかったから、それが厳しいって?」
「まあそれもあるがよ。……うちのが、独りじゃ満足に買い物もできねェと愚痴ってた」
うちの、と言う言い方をするのに少し声がひっくり返り気味になったがバーテンは特に気にした様子もなく、ああ、と頷いた。
「あっちの市場はケイトルが多いからな、あんな薄着で出歩いちゃ余所者でもうるさく言われるだろうよ。うちの酒はテスタンが多いところでで仕入れてるのさ」
得意げに言うものの、感心するでもない、なんだそりゃ、と言うゾロの顔に気付いたのか、バーテンは悪い悪い、とつぶやいて早くもからになったゾロのジョッキを取り上げてビールを注ぐ。
「ケイトルが、戒律が厳しい方。飲酒も御法度なら女の一人歩きも一切禁止。テスタンとケイトルは同じ教えの流れを汲んではいるが、神は罰するものではなく、赦すものだという考えが根底にあるから、戒律はそんなに厳しくない」
だからこそビールもうまく飲める、と差し出されたジョッキを受け取り、今度は飲み干さないように軽く口を付けてから喉を湿らせる程度にして口を開いた。
「その赦しってやつだが、その……緩いほう、何つったっけな」
「テスタン?」
「それだ。毒蛇に咬まれた奴が助かったとか、女が男になったとか……」
「あぁ、経典の。よく知ってるね?」
どうやら、ロビンから聞いた話は伝説だけでなく教徒たちが使っている経典にも載っていることらしい。詳しく、と身を乗り出そうとしたが男の一言に言葉が詰まった。
「正しくは、男が女になった、と書いてあるんんだけどね」
頼んでもいない「赦し」にサンジが引っかかったのはほぼ確定と思って間違いなさそうだ。それが神とやらの仕業だとかは露ほども考えていないが、少なくともサンジのからだには間違いなく教典に載っているらしい事と同じことが起こっている。
「その教典とやら、一冊借りられねェか?」
「ああ、それなら余分があるから差し上げるよ。テスタンのもので構わないかな?」
「問題ねェ、助かるぜ」
自分にそれが読めるとは思えないし、サンジも料理以外のことについては怪しいものだ。持ち帰ればロビンならそこからなにか読みとれるかもしれない。あの女に頼るのは癪だが、他にそういった事柄に詳しい者を知らぬ。
「ふう……」
バーテンが教典を取りに奥へ引っ込んだのを見送りながら、ゾロは深々と息を吐いた。今まで、頭を使わずに本能と腕っ節だけで物事を解決してきたゾロにとって、聞き込みという作業は思いの外苦痛であった。
しかしまあ、これは褒められて然るべき収穫だろう。どうだ見てたかとばかりにテーブル席に待たせていたサンジに振り返ると、そこにはさっきまで店にいなかったと思しき小男と大男の二人組が、サンジの座るテーブルを取り囲んでいる。出入り口までの退路をさり気なく身体で塞いでいるあたり、ただの素人ナンパという訳でもなさそうだ。
サンジは鬱陶しそうに男二人を無視しているが、その態度か癪に障ったらしい、小男が大きな声を上げた。
「おいおいオネーチャン、いくらテスタンの多い地域だからって女が一人酒場にいるなんざ神から天罰が下るぜ?」
連れがいるのだと言えばいいものを、サンジは普段の血の気の多さを如何なく発揮したようで、額に血管を浮かび上がらせてゆらりと立ち上がった。
「あァ……? やんのかコラ」
「お……おぉ、ぜひお相手願おうじゃねェか」
怯みつつも、頭があまり良くないらしくサンジの喧嘩腰の言葉を別方向に捕えたようで、にやりと笑った大男がサンジに手を伸ばす。
その瞬間、銀色の筋が閃いた。伸ばされた男の指先からぴたぴたと血がしたたり落ちた。
「痛ェ……!」
「あ、兄貴ィー!」
思わず男がひっこめた手は、爪と指先の肉をすっぱり落とされていた。致命傷には成り得ないだろうが、しばらく日常生活に差し障りは出るだろう程度には派手に出血している。
余計なことを、とサンジが見る先は勿論居合でその所業を行ったゾロだ。カチンと刀を収めると、まだ騒動が起こったことを知らないバーテンが奥から出てきたので、腹巻から金を取り出してカウンターの上に置き、経典を礼も言わずに受け取って、サンジの腕を掴んで店の出口を目指した。
「ゾロ……っ、おい! いい加減離せ!」
掴んでいた腕を無理やり振り払おうとする動きに、ゾロは仕方なく手を離した。白い手首に赤い痕が残って、サンジはぶつくさ言いながらそれを撫でている。
「なんだってんだ……あの程度の連中、おれの蹴りで一発で沈めてやれたのに」
「連れがいるって言や良かったんだ。なんで自分でどうにかしようとした」
なんで、と言いつつ理由は判っていた。サンジは自分の変化に不安からくるストレスを感じている。ただでさえ緩い堪忍袋の緒がぐずぐずになっているのはゾロも感じている事だが、それを踏まえたうえでもゾロの苛立ちは収まらない。
サンジが自分の身体のままならなさに鬱屈するのは仕方ない事だが、ゾロにも譲れない事があった。
「女は弱ェ。だからてめェも弱ェ。大人しく守られてろ」
「んだと……!? おれはてめェなんかに守られなきゃなんねェ程落ちぶれちゃいねェ!!」
サンジの怒気がぶわりと膨れ上がるのを感じて、すぐに身構えて脳天に襲い掛かった踵落としを片手で防ぐ。普段なら刀で受けて、それでも全身に痺れが来るくらいの蹴りだ。それがどうだ、体重が乗っていなければ勢いも出しきれていない。ゾロは貰ったばかりの経典を地面に放り捨て、そのままサンジの靴の裏を掴み、空き家と思しき民家の壁にサンジの身体を勢いよく押し付けた。
勢いも力も、いつもの十分の一以上に手加減している。それでも、サンジは肺の中の空気を全部吐き出して苦しげに呻いた。
「かはっ……!」
それでもまだ目から怒りの炎が消えていないサンジの両手首を片手で掴んでまとめ頭上で縫い付け、両手と持ち上げた膝裏を壁と自分の間に挟み込んでサンジの顔を睨み付ける。
「それこそ女みてェに声でもあげてみるか? このまま口も塞がれたら、文字通りてめェは手も足も出ねェ、打つ手なしだぜ」
「クソッたれ……離しやがれ!」
「てめェが認めればいくらでも離してやる」
サンジがくやしげにゾロを見上げている。
バーテンの言葉がふいに蘇ってきた。サンジが美人だとかなんとかいういまいち実感がわかない話、だったが。
「ち、くしょ……」
顔を真っ赤にして、苦しさと悔しさの余り目が潤み、息は荒く白い肌が紅潮して薄い唇が震えている様を見下ろして、バーテンの言う事がただの女珍しさでなかったことを改めて理解した。サンジは暫く憎々しげにゾロを見上げていたが、すこし手を緩めてやると不機嫌な表情のままぽつりとつぶやいた。
「……てめェだって両手塞がってんだろうが。口なんかどうやって塞ぐ気だ」
「あ? そんなもん……」
口、で。言いかけて、顔が近すぎた事に気が付いてゾロは慌てて両手を離した。危ない。自分は何をしようとしていたのか。何を言おうと。
「……とにかく。てめェは今そういう状態なんだ。ちったァ自覚しろ!」
うっかり解放してしまったが、まだ満足のいく返事を貰っていない。片手で口を押え、サンジに背を向けて先ほど放り投げた経典を拾い上げてからずんずんと歩きながら背後に向けて怒鳴りつけた。
少し遅れてついてくる足音が聞こえてきたので、怒りと羞恥と混乱に任せて勢いよく歩き続ける。
「ゾロ」
呼ばれても返事をしない。声が裏返りそうだし、何より耳まで赤くなっているんじゃないかというくらい暑い。
童貞じゃあるまいし、何故こんなに動揺しているのか自分でもわからない。
しかし返事をせずにいたら、サンジが小走りに歩み寄ってきて何度も名前を呼んでくる。きっとその仕草も可愛いのだろうに、直視できない。
「……ゾロ。……ゾーロ」
「なんだ!」
「船はそっちじゃねェぞ」
今顔を見られてはまずいのに、振り返らなくてはならないらしい。ぐう、と唸って足を止めると、視界の端にさっきまで捕えていたサンジの白い手が差し出された。
「……手」
「あ?」
「自覚しろっつったのはてめェだろ……!」
勢いよく顔を上げると、サンジはサンジでそっぽを向いている。――サンジにも、顔を見られてはならない事情があるらしい。
もう夜も遅い。戒律に煩い連中は夜は外を出歩かないらしく人目もない。
それでも二人は、手を繋いで帰った。
誰も見ていなかったけれど、船につくまで、その手は離されることはなかった。
リリース日:2013/01/11