02

 三本目の煙草に火をつけようとしたサンジは、先ほどの二本目でマッチを切らしていたことに気がついて忌々しげに煙草をソフトケースに戻した。ゾロはその仕草にすら色気を感じてしまい、サンジを直視できずにいる。

 

「やっぱり、完全な女性体になってるよ……」

 

 呟いたチョッパーの一言で、深いため息をもらすサンジ。採血やら触診やら様々な検査を経てもたらされた結果はサンジにとってあまりにも酷なものであったのだろう。きっとクリーンヒットしたはずの蹴りがゾロには大して効いていなかった事やなんかもサンジにとってはプライドの傷つく出来事だったに違いない。

 

「……戻れるのか?」

「手がかりがなさすぎて……この島に関係があるかもしれないから、ロビンや島の人に話を聞かないと」

 

 何しろサンジにとってこの状態は完全に異常であるが、その女性体に何か異常があるわけではない。すこぶる健康な女性、それが今のサンジの状態なのだ。治そうにも治す場所がない。チョッパーはそんな己をふがいなく思うのか俯いてしまい、サンジは少し困ったように笑った。

 

「まだ時間はあるしな。明日ロビンちゃんに話を聞いてみるか。手伝ってくれるか?」

「も、もちろん!おれ、何でもするぞ!」

「サンキュー、チョッパー。……んじゃ、今日は遅いしもう寝るかな。女性のお肌には夜更かしは大敵だからな」

 

 一発自虐ネタをかましてサンジは立ち上がり、気遣わしい表情を浮かべる小さな医師の帽子をぽんと撫でるように叩くと医務室を出ていった。何となく初めから最後まで無言で同席してしまったゾロは、追いかけるのも残るのも不自然な気がして首の後ろを掻く。

 

「ゾロも、サンジのために協力してやってくれよ」

「……あー……気が向いたらな」

 

 チョッパーが話しかけてくれた一言のおかげで何となく立ち上がるタイミングが掴めたので、曖昧な返事をして医務室を出ることができた。船尾へ移動するといつもの定位置に刀を立てかけて腰を下ろす。動揺していたので忘れていたが、自分の手はサンジの乳を遠慮なく揉んだのだ。もう少し味わってやればよかったと後から気づいて、悔しさのあまり今夜はとてもでは無いが眠れそうになかった。

 

 

 

「おきろ、クソ剣士」

「ふごぉっ!!!あ……が……て、てめェ……」

 

 眠れそうにないと思っていたゾロにも等しく朝は来る。思ったとおり夜は眠れず、何度か試みて漸く明け方に目蓋が落ちてきたのだ。そんな寝不足気味の船尾で大の字になっていたゾロに容赦なく踵を落としたのは件の料理人であった。一日身体を慣らしただけで、その蹴りの威力はなかなかのものに戻っていた。自分の手足の変化で生じた遠近の差を掴んできたのだろう。それを我が身で体験させられたゾロは腹部を両手で押さえながらよろよろと上体を起こす。

 

 時間はわからないが、朝食にしても随分早すぎるのではないか。日の出は始まったばかりで、海の水平線を美しく染め上げている。料理人が朝早くに起きて朝食の準備をしているのは知っているが、その時間帯に誰かを起こすとすれば、見張り台で居眠りをこいている見張り役を起こし、ベッドで寝るように促す時くらいだったはずだ。そしてゾロは見張り役ではない。男部屋でコックが寝ていたから致し方なく外で寝ていただけだ。

 

「……手伝いやがれ」

「……あァ?」

「おれが育ててやったその無駄な筋肉をついに人様の為に役立てるときがきたっつってんだよハゲ」

「誰がハゲだ」

 

 言わせて貰えばサンジのメシで充実しているのかゾロの頭髪は今日も青々と茂っている。しかしそれを「てめェのメシのおかげで」というのも癪で、腹の痛みが引かぬままにのろのろと起き上がった。普段だったら同じ高さにあるサンジの目線が下から見上げる形になるのにやはり強い違和感を覚えながらも、で、とあくまで面倒そうなポーズを崩さずに尋ねる。

 

「……持ちあがらねェんだよ」

「何がだよ」

「…ず……べがだよ」

「あァ?」

 

 喋りながら歩くサンジの後ろを着いて歩きながら、ぼそぼそと喋るサンジに柄悪く聞きかえすと、ギ!と音がしそうなほどに鋭く睨まれた。何も悪いことは言っていないと思ったのだが、サンジはとてつもなく気を害した顔で、その表情は男のときのサンジを思い出させる凶悪さであったが、その可憐な声が地を這うような声で言った内容にゾロは思わず瞠目した。

 

「おれが昨日寝る前に丹精混めて仕込んだスープをなみなみと湛えた寸胴鍋がだよ、クソッたれ……!!」

 

 蹴りの鋭さはそのままに威力が落ちている事には気付いていたが、まさかそこまでとは。料理にまでこの変化が支障を及ぼしている事を理解したゾロはサンジの不機嫌さの理由を理解してそれ以上は何も言わなかった。もしこの現象が自分の体に起きて、刀が重くて触れないし咥えられない、なんて状態になってしまったら不機嫌では済まぬ話だ。揶揄の言葉は考えれば浮かびもするが、それを口にはしなかった。

 

 キッチンにたどり着いたゾロは、たっぷりとスープを腹に溜め込んでいるこの船で一番大きな鍋をひょいと持ち上げ、サンジが無言で顎をしゃくった先にあるコンロへと乗せた。一滴でも零せば顰蹙を買うだろうから、自分に似合わぬ丁寧な動作でそうした。サンジの普段の動作を思い出すとものすごく乱暴に見えていたのに、実は洗練された動きだったのだと己でやってみてはじめて解る。何しろサンジの言った通りなみなみと湛えられた黄金色のスープは、ゾロが一歩あるくごとに想像以上に派手に揺れる。

 

「……これでいいか」

「あァ」

 

 すっぱー、と普段よりも5割り増しほどやさぐれた動作で煙草を口から離して紫煙を吐き出すと、それを灰皿に押し付ける。船尾に戻ってもよかったが、他にまたやる事が出来るかもしれないと思い、起こされる為に再度蹴られるのも理不尽だし、と色々自分に言い訳をしながらゾロはダイニングの普段の席に腰を下ろして突っ伏した。

 

「……ありがとな」

 

 何も言いはしなかったのにゾロの気遣いがサンジに伝わったのか、それとも単純に寸胴鍋を移動させた事に対してか。滅多に聞かれぬコックの礼の言葉に返事をせずに、ギリ、と奥歯を噛み締める。こうして目を閉じていてやるから、次に目を開けたときには朝飯と一緒に元の姿に戻っていやがれ、と。

 

 

 

 昼過ぎに連れ立って帰ってきたロビンとナミはサンジを見て悲鳴こそ上げなかったがやはり驚きに目を向いていた。当然である。ぶかぶかのスーツで動き辛そうながらもクルクルクネクネしながら彼女らを出迎えたサンジの姿はどこからどう見ても女性だからだ。しかし、よく似た他人とは思わせないその立ち振る舞いは流石だとゾロは思った。勿論いい意味ではない。やがてロビンが腕を組み、軽く眠った昨晩の見張りである船医と二つ三つ言葉を交わしてからポツリと呟いた。

 

「フェアゲーベン……今の貴方はそれかもしれないわ、コックさん」

「ふぉ……なんだい、ロビンちゃん?それ」

 

 耳慣れない語感に、ゾロは頭の中で繰り返したにも拘らず舌を噛んでしまったようなチリとした痛みを舌先に覚えた。ロビンも、少し待って、と頭の中にある膨大な知識の引き出しを一つ一つ確かめるようにして呟く。

 

「赦された、という意味よ」

 

 その響きにピクリとゾロが反応する。この島にたどり着いてからロビンの口から赦し、というキーワードを聞くのはこれで二度目になる。たしか、「大罪を許す奇跡を与える」だとかそういったものだ。それにしたって「罪」の定義だってこの島の宗教に基づいた独特のものだし、曖昧過ぎるとゾロは考える。

 

「この島は赦しの奇跡が起きるといわれているのだそうよ。たとえば、禁忌を侵して秘密の聖地に足を踏み入れた男が、崖から足を踏み外したけれど数日後に無傷で帰ってきたとか。飢えのあまり聖なる生き物とされている毒蛇を食べて中毒になった男が、翌日なぜか解毒されて生き延びたとか……」

「偶然だろ」

「じゃあこれはどう?愛し合った女同士の同性カップルが居て、片方が突然男性になった」

 

 勿論それもこの島では本来は禁忌、と付け加えるロビンにゾロの山形の眉は左右に高低差をつけて動揺を露にした。ゾロとサンジは勿論愛し合ってなどはいないが、同性というところには耳に痛いものを覚える。視界の端でサンジを盗み見ると、困ったような怒った様な複雑な表情をしているが、少なくとも嬉しそうには見えなかった。まあ当然だ。

 

「奇跡はめったに起こらないけれど、「赦し」なのか「願いを叶える」なのかは私達部外者に言わせれば曖昧なところね。崖から落ちた人や中毒になった人は赦されて助かったのかもしれないし、生きたいと願ったからそれが通じたのかも。この島で咎められることなく一緒に居たいと願った女性同士のカップルも、赦されたのかもしれないし、願い事をしたから叶ったのかも。検証するには実例が少なすぎるわ。ただ、島でそれをフェアゲーベン、赦されし者、と呼ぶ、それは客観的事実よ」

 

 ロビンの考察を聞く間、殆ど黙ってサンジを見ていたナミが「願い」というキーワードを耳にした瞬間ゾロが「同性の……」というキーワードを聞いたときと同じような反応を示した。動揺を見せたのである。ゾロの変化に気が付かなかったサンジは、ナミの変化には気がついた。ゾロの反応が薄かったせいもあるし、ナミの反応が顕著だったのもあるし、サンジの注意が常にどこに向かっているかを明確に現す結果でもあった。

 

「どうした、ナミさん」

「え、やだ、……ごめん!サンジ君」

 

 何事、と目を丸くしたサンジが口に咥えていた煙草を慌てて灰皿に押し付けてナミの傍に歩み寄るが、ナミは両手を合わせて完全に謝罪モードに入っている。金が絡まぬならこの女はこうして簡単に謝ってみせる、とゾロは穿った見方をしてみたが、どうもナミの陳謝は本物らしい。

 

「もしかしたら、もしかしたらあたしのせいかもしれない……」

「……話して、ナミさん」

 

 責めるではない、ただ純粋に不思議に思って尋ねる口調のサンジにナミは合わせた両手をそろそろと下して眉を寄せた。口元を押さえて、至極申し訳無さそうにぽそぽそと口を開く。

 

「昨日、ちょっと悪くなりかけたみかんを提供したら、サンジ君、みかんソースのチキンソテーを作ってくれたわよね」

「あぁ、そうだね。ナミさんのおねーさまに教えてもらったレシピだよ」

「それで、余った皮で色々してたでしょ」

「あァ、ナミさんのみかんに捨てるところなんて無いからね。ピールを……」

 

 何をしようとしていたのかは問題ではない、と説明しようとするサンジを手で制する。そして、制した手で男だったときより一回り小さくなった、しかし料理人の手である事には変わりの無いそれを両手で捕まえて皮の厚い掌を撫でる。ゾロはその繋がりあった手を見て目を見張ると、まさかナミは普段からサンジには素っ気無くしているが、本当はこの女もサンジに懸念しているのだろうかと一瞬思った。が、それならサンジが女性になる理由はない。普段そんな風にナミにしてもらった記憶がとんとないサンジは目をハートにして、んナミさーん、と条件反射でメロメロになっている。だが、ナミは少しだけ辛そうに口元を歪めた。

 

「そのみかんの匂いに、煙草の匂いが混じって。ベルメールさんのこと、思い出したんだ」

 

 先ほどまで煙草を吸っていた掌には、まだその匂いが残っている。みかんの匂いはもう残ってはいないが、ナミの育ての親もサンジに負けず劣らずヘヴィースモーカーであったのだ。メロリンコックになりかけていたサンジは、ン、と喉の奥を詰まらせて真剣な顔に戻る。

 

「意識したわけじゃないけど、もしサンジ君が女の人だったら、……って、思ってしまったかもしれない」

「ナミさん……」

「ごめん」

 

 ナミはルフィに助けられたが、それでベルメールのことまで忘れてしまったわけではない。ふとしたきっかけで思い出すし、それを悪いことだとは思っていない。だが、サンジという人を歪めていいという事ではないはずだった。だからナミは真剣に謝った。サンジにベルメールの影を求めたつもりは無いが、それでも無意識で思ってしまったかもしれない、と。

 

「……」

 

 その二人の空気に居心地が悪くなるのはゾロだ。自分にだって心当たりが無くもないのだから。勿論意識的なものではないのはナミと一緒だが、自分の場合は勿論表に出すつもりはこれっぽっちもなかったにしても、突き詰めれば「コックをヤッちまいてェ」という不純すぎる心当たりだ。苦虫を噛み潰したような表情のゾロを置き去りに、サンジはナミに利き手を捕らえられたまま空いた片手でナミの背中に手を添えた。

 

「謝らないで、ナミさん。こんなのナミさんのせいじゃねェさ。それに、こうなった事でナミさんがおれにもっと甘えてくれるなら、これはこれで悪くねェかも」

「サンジ君……」

 

(んなわけあるか!)

 

 ゾロは心の中で激しく突っ込みを入れたが、それは己の理性の問題である為に口まで出かかったそれを必死の体で食い止めた。もともとサンジは線の細いほうだから、ナミと会話しているときに「細ッこいもん同士」と同じグループ分けして見ていたきらいがある。それが、サンジが完全に女性体になってしまったことで益々危ない匂いがする。見つめあう二人に漂うのは背徳的なエロスというか、とにかく危険が危ない。

 

「……ただ、おれはやっぱりナミさんを男として愛する為に生まれて来た騎士だからね!元に戻る方法を探すけど、それは許してくれるかい」

「許すも何も、当然よ!あたしも方法を探すわ。このままじゃ目覚めが悪いもの。今から島に戻る?」

「さすがナミさんだ。けど、せっかく船まで戻ってきたんだ、疲れてるだろう?オレンジピール入りのパウンドケーキを焼いたから、お茶にしよう。出かけるのはその後で」

 

 ロビンちゅわんも座って待ってらしてー!とひらひら消えていくサンジに、手伝う、と一体どのような天変地異が起こるのかは知らないがそう言ってついて行くナミを呆然と見送ったゾロは、その場に留まったロビンの面白がるような視線に耐え切れずにぽっかりと開けたままだった口を結んで睨みつけた。この女はビタイチ信用ならぬ。

 

「いいの?剣士さん」

「何がだ」

「コックさんに、黙っていても」

 

 何の話だ、といってやりたかったが、ゾロの舌は麻痺したように言葉を紡ぐ事を拒否した。この何もかもを見透かしたような目をする考古学者が何をさして「いいのか」と尋ねるのか、痛いほど解るからだ。それがカマ掛けだったとしても、ゾロにはそれにうまい事返事が出来なかった。

 

「フフッ」

 

 サンジに言われた通り、甲板に用意されたデッキチェアに腰を下ろしパラソルの下で脚を組むロビンを直視する事も、キッチンへ引っ込んだサンジとナミについていく事もできず、ゾロは乱暴に頭皮を掻き毟って男部屋へと引っ込んで行った。思った以上に爪が伸びていたのと、思った以上に力が入ったので爪の間に血が挟まったが、そんな事よりもサンジに対する罪悪感で痛み等感じはしなかった。

リリース日:2010/09/07

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