ケモノとバカンス

微妙にこれの1ページ目の話の続き。


 常日頃から自分を馬鹿にしたような目で見てくる男に何で惚れてしまったのかなんて、いまさら反芻するようなことでもない。そうなるものは、そうあるべくしてそうなるものだ。だから、ゾロがサンジに惚れてしまったのも、だれの責任でもない。しいて誰かに責任を問うのであればサンジが悪い。あの目が悪い。人を小馬鹿にしたような顔をしながら、欲しいけれどけして手に入らないものを見るような。

 あれは子供の目だ。たぶん、子供のころにあの男が殺した子供のころの自分自身なのだ。

 思えば、サンジにはそういうところがあった。他者を先に立てる。それはつまり、自分のことは二の次、己の欲しいものを我慢するということで。

 サンジの目にそんな気配が混じりだし、自分もまた、あれのそういう対象になったのだと悟った瞬間の自分自身の心境は、今でも振り返れば肝が冷える。

 

 それは、途方もない怒りだった。

 自分でさえ、何の怒りなのかはじめはわからなかった。それこそ、好かれているということを察し、一瞬満更でもない気持ちにすらなった後の猛烈な怒りだった。

 

 握りこぶしを自分の胸に押し当て、必死でサンジの顔面をぶん殴りたい気持ちを抑えた。

 その怒気ときたら、気配に驚いたルフィが、どうした、と見張り台に顔をのぞかせたくらいのものだったらしい。

 なんでもねェ、と返したが、ルフィと同等かそれ以上に気配に敏いサンジが気付かなかったはずがないのに、サンジは夕食に降りてきたゾロをあの目で一瞥するだけで、何も聞かなかった。

 

 怒りの理由が何なのかわからず、ただ、理不尽にサンジに当たるわけにもいかず己の衝動に困惑したゾロだったが、サンジのその目をしかとみて、ようやく理由を察した。

 ゾロがなぜ怒ったのか、知りたいような。けれど、ルフィが先に様子を見に行った。そのルフィが何も言わなかった。

 だったら自分は聞かないほうがいいのだろう。そんな線の引き方をされたのが分かった。

 

 とどのつまり、サンジは自分を、ゾロを、欲しがるそぶりを見せすらする前に、諦めているのだ。だから腹が立ったのだ、と納得がいった。

 

 そして、今までに感じたことのない類の怒りとともにサンジへの思いを自覚したゾロは、決意した。

 

 絶対に。

 絶対に自分からは言ってやらねえ。

 

 欲しがればいい。声に出して、自分が欲しいものを明確にすればいい。

 そうすれば、全部やる。

 その代わり、全部もらう。

 

 そう決めて、ゾロはサンジがしている我慢とは種類が違う我慢を己に強いた。

 なにしろ、サンジはゾロにとって鼻面にぶら下げられた肉だ。

 ゾロに喰われたがっている。これが勘違いだったら割腹していいくらい自信がある。それくらいに据え膳の無防備な生き物だ。

 けれど、それを食わずに我慢しなければならない。肉が、自分を食べてほしいと言い出すまで、たとえ鼻面にピタピタと柔らかい肉を押し当てられても、その鼻先についた肉汁を舐めるすら、己には許していない。

 

 

 けれども。

 一度だけ、ゾロは。

 その誓いを破ったことがある。

 やむを得なかったと言い訳はいくらでもできるが、破ったことに違いはない。

 

 とある島で、ゾロはよくわからない呪いだか薬だかの罠に引っかかって、虎の姿になった。

 そりゃあ大変だった。刀は手に持てず、口に銜えた一本で精いっぱい。もちろん言葉も喋ることができず、人前に出るのも人間の連れがいなければ大騒ぎになる始末。

 やっと戻り方を見つけ出したと思えば、愛する人に口づけをせよときたものだ。

 

「いねェだろ」

 

 そんなの。サンジは聞えよがしにため息を付いてそう言った。それにもゾロは腹がたった。

 誓いを立てたとはいえ、虎の姿のままでいるわけにも行かない。

 トラの姿のまま伸し掛かって、顔を舐めた。

 いい加減に分かれ。そんな思いで顔を寄せたら、さんざん罵倒を受けた挙句、サイズ差の著しい口付けとも呼べないそれを、サンジはくれた。

 

 漸う伝わったという事、サンジの肩を地面に押し付けていたでかい前脚が見覚えのある手に戻っていく事それぞれに眉を開きながら、牙はまだ残るが人間らしくなった唇をもう一度重ねる。サンジはそれに口を開いて答えた。舌を擦り合わせ、互いの唾液を混ぜあわせた。

 

 声帯も戻ってきて、唸り声混じりにコック、と呼んだ声に思いのすべてを込めたつもりだし、サンジにもそれが伝わったと思った矢先だったが――

 

 サンジとキスをしたのは、あれが最後だ。

 

 

 期を逸した、とでも言うのだろうか。

 あのあと、さんざん我慢させられてきたものを全部ぶつけてやろうと思っていたのに、なんだかんだで一味の大ピンチでゾロが重症を負って、そうしてバラバラになって。気がつけば二年だ。

 再会した時には、あの目ではなくなっていた。代わりに、恥じらいというか、戸惑いというか、複雑な表情をしてはいたものの、我慢の色は見えなかったのでゾロは満足した。

 二人きりになったら絶対に手を出してやる、そう思って、虎視眈々とサンジを狙っていた。

 

 だから、というわけじゃないはずなのだが。

 

 ゾロはまた、虎の姿になっていた。

 

 島についたぞというルフィの声に目を開けて、くああとあくびをしたつもりが、がおー、みたいな獣そのものの唸り声が喉から漏れてしまい、草食動物トナカイの被食者の本能か、チョッパーがピャっと悲鳴を上げてサンジの後ろに逃げたのが見えた。どうなっていると疑問に思う前に、続く全員の驚愕の表情と、一人だけ呆れた表情を浮かべるサンジの様子を見て、ゾロは己の姿がどうなっているのか悟った。

 

「またかよ……」

 

 嘆きたいのはゾロの方だ。今度は薬も呪いも心当たりがない。

 前回の件については、全員原因は知っているが、どうやって治ったかといえば色々したからどれが効いたやら、もしかしたら時間薬かも、とサンジが説明している。当たり前だ。あの男がナミやロビンにキスしたら元に戻ったなんて説明できるはずがない。

 

「また時間を置いたら治るのかしら……?」

「それじゃあ、また虎さんのお世話はサンジにお任せね。色々試してみてちょうだい」

 

 素直にそれを信じたナミはそう首を傾げ、何を知っているやら、ロビンがニッコリと笑って言うので、サンジは引きつった笑いを浮かべて、頑張るよ、と言った。是非頑張ってほしいものだ。

 

 島は、いかにも南国の夏島だ。無人島なのかもしれないと思わせるほど人の手で開発された様子がどこにもないが、チョッパーが空をゆく鳥に話を聞けば人は少ないが住んでいるし食料は豊富とのこと。ゾロとサンジ以外は冒険と食料調達を兼ねて上陸する流れとなった。

 

 狩りならば虎になったからといって遅れを取るつもりはないゾロだが、何しろサンジが色々頑張ってくれるそうなので、出かける皆には気をつけて行ってこい、の意図を込めて尻尾を一度持ち上げた。一度経験した虎の身体である。尻尾や耳を動かすのも慣れたものである。

 

「なにがいってら、だ。さっさと元に戻っててめェも働くんだよ! 見ろ、めっちゃくちゃ魚泳いでるぞ!」

 

 たっぷり捕って生け簀に入れる気満々、という感じだが、さっさと元に戻るにはとある人物の協力が必要不可欠である。

 そのとある人物が自分であることを解っているはずのサンジなので、海面を見て無理やりテンションを上げて見せていた姿が一変、ものすごく不機嫌そうにブツブツ言いながらじーっと見つめるゾロのもとにやっとノコノコ歩いてきた。

 

「キス待ち顔やめろ」

 

 顔を上げただけなのにこの言われようだが、否定できる材料も声帯もない。さっさとしろ、と唸ろうとしたら、ゴロゴロと喉が鳴った。思ったのと違う音が出てしまうのはいただけないが、サンジが少し不機嫌な顔を弛めたのでよしとする。

 寝そべった前脚の間にしゃがみ込んで、サンジがゾロの首のあたりのたわんだ毛皮をギュッと握る。どれだけ人間の時引き締まっていても、そこら辺がくにゃくにゃなのはネコ科の宿命だ。おまけにもっと強く握ってもいいくらい気持ちがいいのもこの辺の特徴である。

 すうっと目を細めると、サンジは、ったく、としょうがなさそうに言って、鼻先にチュッと唇を押し付けてきた。

 いつもよりタバコの匂いを強く感じる。元に戻る前に匂いを本能で覚えるべく、いろいろな場所の匂いを嗅いでおくべきだったと思いながらも、牙や、あるかどうかもわからない唇らしき場所にサンジが何度か唇を押し付けてくるのに合わせて、ゾロもサンジを舐め返したが。

 

「……あれ?」

 

 ちゅ、ちゅ、とサンジが何度も唇を押し付ける。乱暴に下顎を掴まれて、あがっと口が開いた所で小さな舌とゾロのザラザラの舌が触れ合ったが、二年前に人間の体に戻った時のような、劇的な変化は全く起こらなかった。

 さぁっ、とサンジの顔色が悪くなる。

 

「も、戻らねェ……?」

 

 まさかそうなるとは考えていなかった。しかし、よくよく考えればそれもそうだ。前のはちゃんと理由が分かっていた。解決法だってそれに関連付けられて探しだしたものだ。今回ぱっと虎になったからといって、前と同じ方法で治る保証なんてまったくない。薬も呪いも心あたりがないと自分で思ったばかりだったのに。

 こうなってしまうと皆が戻ってくるまで二人で船でのんびり、なんてわけにも行かない。

 何とかして元に戻る方法を探さなければ。そう思って、腹ばいになっていたゾロがのそりと立ち上がったが、サンジはしゃがんだまま床を見つめていた。

 

「……そ、……そっか。……そうか」

 

 ふ、と持ち上がった視線が絡み、そしてゾロの腹の中に覚えのある怒りが再び蘇る。

 

(なんで今、あの目だ)

 

 理由はすぐに分かった。ゾロが、虎になった原因は他にあると思いついたのに対し、サンジは戻れなかった原因が他にあるという別の可能性に行き着いたのだ。

 ゾロの「あいするひと」が、もう、サンジじゃない、というふざけた可能性に。

 

 ばしーっ、とサンジの横っ面をおもいっきり殴った。肉球パンチでもこの太い足から繰り出されるものはなかなかの威力だっただろう、しゃがんでいた体制が崩れてサンジが女座りになっている。それはそれで面白いが今度こそ我慢ならない。えっ、えっ、と動揺しているサンジの背中にのっしと前脚を乗せると、がぶりと首の後ろに噛みつく。猫のように撓んでいないそこからは、すぐに脈打つ血管の存在が伝わってくる。

 

「いでえええ! な、なん、なんだてめェこの」

 

 反射的に身を丸めようとするサンジだが、牙から逃れようとすると余計に食い込むことが判るのか、理性が身体の本能的な動きを押しとどめて硬直している。まだ牙は皮膚を突き破ってはいないが、抵抗すればいずれそうなるだろう。

 よしよしと気を良くして噛み付いたままベロベロと項を舐め、スーツのパンツ越しに股間をすり寄せる。ずり、ずり、と棘の引っかかるような感触を尻に感じたのだろう、サンジはギャアと悲鳴を上げた。

 

「おま、なに、え、待て、待て待て待って! にぎゃー!」

 

 待って欲しければゾロがなぜ怒ったのか考えて、謝罪すべきだろう。そうでなければスーツの一つや二つは諦めてもらう他ない。

 

「おまえ、ちゅーした事怒って、ぃいいでででで! ヤダヤダヤダなんか擦れてる当たってるぎゃあああ!」

 

 噛む力を強めると、ビタンビタンと背後の方で音がする。サンジの足が甲板を蹴っているのだろう。穴があかなければいいが。甲板にもサンジのスーツのパンツにも。でないと本当に異種間種付けしてしまう。

 

「お、おれの事、好きじゃ、なくなったわけじゃ、無いって、言いてェのか……?」

 

 アタリマエのことにようやく気づいてくれたらしい。本能的にはこのまま続けたいが、理性は人間だ。グルル、と不機嫌に唸ることに今度は成功して、サンジの上からどいた。カサカサとゴキブリのように這って逃げたサンジは、背中を船べりに預けて右手で首をさすり、左手で恐る恐る尻のあたりを確認して、がくりと肩を落とした。

 

「け、穢された……」

 

 我慢はしたが、多少はそりゃ、先走ったりするだろう。色々と。

 なんたって惚れた相手にこすりつけていたわけだからして。そんな思いでふんすとおすわりポーズで胸を張ると、サンジは恐る恐ると言った風だったが、立ち上がってゾロの側に歩み寄り、喉の下を撫でてきた。

 元の姿には戻らないと分かっていてもキスのひとつでもするべきだろうと思うが、サンジは何かを確かめるみたいにずっとゾロを撫でていた。

 

「……そっか」

 

 さっきと同じ台詞だが、多分に安堵が含まれていてぜんぜん違う台詞みたいだ。サンジを見上げると、サンジは徐々に得意げな顔になって頷く。

 

「そりゃそうだよなあ。お前、おれにベタボレだもんなあ。二年程度で心変わりするはずもねェか」

 

 何だとこの、とまた噛み付いてやろうかと思ったが、首に抱きつかれてもふっと毛皮を撫で擦られながら、サンジが小さな声で、おれも、と言ったので。

 これはもう異種間交配やむなし、とゾロが俄然張り切った瞬間、おおーい、と船の下から声が聞こえてサンジが船べりに駆け寄る。ゾロものそのそと近寄って行って後ろ足二本で立ち下を覗き込むと、見たことのない顔だった。よく日焼けして、いかにも地元民風の格好。

 

「あっ、やっぱり! 獣降ろしされてるな」

「けものおろし?」

「この島に入るときに寝てると、ここで死んだ獣に乗り移られちゃって、その姿になってしまうんだべな。他所から船なんかめったにこねえし、そもそも船の上陸なんちゅう忙しい時に寝てるような船員はなかなかいねえもんだから、最近は見かけなかったがなあ」

 

 サンジにジト目で見られているのを感じつつ、ガウ、と吠えると、島民はカラカラと笑って手を振った。

 

「心配ねえべ、獣は悪さはしねえ。うめえもん食って、寝たい時に寝て、好きなことしてりゃあ獣も満足して出て行くだよ。そうじゃなくても島から離れりゃ元に戻るしな。おらァあんたらの仲間に、仲間が虎になったって聞いてよ。釣りで沖に出るからついでに伝言してやるって来ただよ」

 

 嘘も方便というか、今度は本当に時間薬が正解らしい。無事伝えられてよかったと満足気な人の良さそうな島民は、サンジの礼を受けて小さな船を出し、やがて視界から消えていった。

 

「ほっときゃ治るんだってよ。キスし損じゃねェか。あげく妙な勘違いしてひどい目に合わされるし」

 

 ああいてえ、とサンジが首の後ろを撫でる。キスのし損とはご挨拶である。妙な勘違いもサンジが勝手にしたことだ。

 不満が尻尾に出て、ばしんばしんと甲板を叩くとぎゅむっと尻尾を踏まれ、痛みはないが不愉快なのでウーと唸る。

 

「悪かったって」

 

 上機嫌に笑ったサンジが首の後ろに抱きついて伸し掛かってくるので、のしっと立ち上がって歩きまわってやるとへらへら笑って喜んでいる。

 

「皆が戻ってくるまで三日間。詫びも兼ねて、せいぜいご奉仕してやるから、さっさと満足して元に戻りやがれ」

 

 ちゅ、と耳元で音が鳴った。

 これはまた、願ったり叶ったりな申し出だ。もう少し不機嫌なふりをして、せいぜいご機嫌をとってもらおう――と思うのだが。

 

「ゴロゴロ言いやがって、可愛いやつめ」

 

 どうにもこの体は不便である。サンジの言う通り、早々に戻ったほうが色々と都合が良さそうだ。

 

 

戻る