ゾロが帰国子女という言葉の意味を正しく理解したのは、小学一年生に上がってからの事だった。
 隣の家に引っ越してきた家族がフランスから帰国したばかりだという一家で、母親が「帰国子女ってやつだな」と呟いたのをどこかで聞いたのだ。しじょ、というからには女だと思ったのだが、帰国子女本人が半袖短パンに黒いランドセルを背負っているのを見て、男でも帰国子女と言うのだな、と理解した。
 もっとも、その黒いランドセルがなかったら、もう少し長い間勘違いしていたかもしれない。それだけ、そのキコクシジョは、ゾロの目にはキラキラして見えた。

 その帰国子女の名前は、サンジ。

 ゾロと長い付き合いになるその少年は、三つ編みのひげを持った壮齢の男性に連れられ、白磁の頬を赤く染めて、少し強張った笑顔で、ぼじゅー、と言ったのだ。

 学校への転入手配が終わり、その帰りにこれから隣人となるロロノア家へとあいさつに寄ったらしい。父親と呼ぶには少し歳が行き過ぎているようにも見える男は日本語も日本文化にも通じているようで、流暢な挨拶の後に蕎麦を手渡し一礼をして、年甲斐もなく(とは言え息子であるゾロにさえ年齢を明かしていないが)ゴスロリドレスに身を包んだ母親といくつか言葉を交わして去っていった。

「生ボンジュール初めて聞いたな」
「なまぼん?」
「こんにちは、って言ったんだぞ、アイツ」

 どこかぽかんとして閉じた玄関のドアを眺めながら母親が呟いた。どうやら外国語の挨拶だったらしい。
 日本語出来ねえのか、と理解したゾロだったが、眉毛はクルクル。長いまつ毛も眉毛も金色で、目は真っ青といういかにも外人な外見を見れば不思議ではない。

「可愛かったなあ、アイツ。フランス人形みたいに着飾ってやりたいなー!」
「……オトコだろ、あいつ」
「関係ねェ!」

 聞けば、生まれは日本。血筋はフランス。両親は、理由は知らないが、いない。一緒にいた大人は祖父、という事らしい。

「なんか眉毛巻いてたけどフランスの流行かな」
「知らねえ」

 ああいう金髪碧眼を飾り倒すのが夢だったんだと目をキラキラさせている母親に、ふうん、とゾロは生返事をして、剣道の道場へ向かうための準備を始めた。
 生っ白くてひょろっとした少年だった。年上だったけれど、すぐに身長も体重も追い抜けそうだ。笑った顔も悪くなかった。だから敵じゃない。二重の意味で。
 剣道にしか興味のない幼いゾロにとって、人の評価は敵になるかならないかの判断でしかなかった。
 情緒的なものがまだ育ち切っておらず、ある意味、獣そのものだったのかもしれない。

 だからこそ、だったのだろうか。言葉が通じないはずのサンジの気持ちが、ゾロには何となくわかった。
 サンジ達が引っ越してきて一か月が経ったが、サンジが孤立していることをゾロは敏感に感じ取ってしまっていた。孤立と言ってもいじめられているという様子はなく、皆どこか遠巻きに眺めているというか、遠慮しているというか。
 引っ越しの挨拶の日からしばらく経ったが、日も暮れようかという時分、道場からの帰り道に公園で一人ブランコに乗るサンジを見かけることも一度や二度の事ではなくなってきた。
 サンジは小学四年生だ。周りのクラスメイトはすでに仲良しグループ的なものを形成してしまっている。そこへきてあの外見と、不思議な響きの言葉。どちらからもうまく踏み込めないのだろうと子供ながらに推察したゾロだったが。

(まあ、でも、そのうち何とかなるんじゃねえか)

 自分には関係ないし、こういうのは自分で何とかしなきゃいけねえもんだろ、とあえて何もしなかった。
 そう自分に言い聞かせはしたものの、気になるものは気になる。またいる、今日もいる、と毎日様子をこっそりと窺った。道場が休みの日も遊びに行くフリでサンジがいるかどうか確認したり、いつもはいる時間なのにいなかったりすると、そのほうが良いことのはずなのに心配になったりした。

 気にしすぎているという自覚はあった。もともとゾロだって同学年に友達が多い方じゃないのだ。自分が口下手だという事だってわかっている。
 けれど、目について離れなかった。夕日に染まる金色の髪が。気になった。地面ばかりを見ているあの青い目が、もう一度自分を見ないものかと。

 ふと、サンジが顔を上げたのが見えて、見ていたのがバレてしまうと思い反射的に顔を背けかけたが、サンジの顔はゾロがいる方向とは別の方向を向いていた。ちょうどゾロの入る場所とは対角にあたる方向だ。
 公園を囲う垣根の影からそっと様子を窺うと、サンジにある大人の男が近づいていくのが見えた。大学生ぐらいだろうか。
 サンジが顔を上げたのは、声をかけられたからだろう。

(知り合いか……?)

 そう思ったのは一瞬だった。サンジの表情ははた目にはあまり変わらなかったが、ゾロには困惑が見て取れたのだ。
 会話は聞こえない。だが、しゃがみこんでサンジと目線を合わせて話す男の顔に、嫌なものを感じた。それが何なのかはわからない。ただ、腹がギュッと掴まれたような嫌な感じだった。
 そして、さびたブランコの鎖を掴んでいるサンジの手首に男の手が伸び、サンジの表情が歪んだ瞬間、ゾロの足は駆け出していた。

「そいつに触んじゃねェ!!」

 剣道で鍛えた腹筋で公園中に響かんばかりの大声を上げて、ゾロはサンジのもとへ駆け寄る。竹刀を覆う布を投げ捨て両手で構え、突然の大声にたじろぐ男に身体ごとぶつかる様にして打ち込み、強引にサンジの前に立つ。

「な、なんだお前」

 怯んだ男の表情は、理不尽な攻撃に対する不可解なものではなく、目的を邪魔した闖入者に対する害意に染まっていた。それを見てゾロは確信する。これは敵だ。
 近づけば打つ。その思いを込めてにらみつけると男は一瞬気圧されたのか一歩引いたが、それをごまかす様に構えを作った。

「おれは空手の段持ちだぞ。怪我したくなきゃ失せろ剣道ガキ」

 剣道三倍段と俗に言いはするが、そもそも小学一年生のゾロはまだ段も持っていないし、男の言葉が嘘ではないらしいことは構えを見ていれば判る。
 しかし、ここで引いたら一生後悔することは直感的にわかっていた。
 せめてサンジが逃げる時間だけでも稼げれば。そもそもサンジに逃げろとどう伝えればいいのか。

 その迷いの瞬間を男は確実に見抜き、ゾロが構えた竹刀の先端を素早く掴んだ。しまった、と引こうとするが大人と子供の力の差は大きく、竹刀を奪い返すことができない。

「何をしているの!」

 その時だった。聞き覚えのある女の声がして、ゾロは視線を走らせた。婦警のたしぎだ。妹のくいなが同じ道場に通っているので顔見知りではある。
 状況を説明しようと思い頭で言葉を組み立てるが、その間に男が竹刀を離したのでゾロは後ろに勢いよくたたらを踏みそうになり、そこをサンジに支えられた。
 その間に、人好きのする――とはいえ、ゾロにはニタニタとしたいやらしい笑みにしか見えない表情で、男がたしぎに向き直った。

「婦警さん。このガキが急に竹刀で打ち据えてきたんで驚いちゃいまして。子供相手に反撃するわけにもいかないし、困りましたよ」
「ゾロ君じゃないですか。本当ですか?」

 違う、と言いかけたが、状況は男の言う通りにしか見えないだろうし、実際にそうだ。打ち据えたというよりは体当たりでサンジと男を遠ざけただけではあるが、それでも素手の相手に竹刀で対峙していたゾロになんの言い訳ができただろう。サンジに状況説明ができるはずもないし、そもそも助けを明確に求められたわけでもない。
 たしぎは根気強く待つ姿勢を見せたが、何も言わないでいるゾロの前で身を屈めて竹刀を下ろさせる。

「道場では、道場以外で人に竹刀を向けないようにって教えていますよね?」
「知り合いならおれはもういいですよね、後は頼みますんで……」

 男がニヤニヤ顔のまま逃げようとした。その時、ゾロの肩を支えたままだったサンジが怒りに染まった顔で男を指さした。

「アメ」
「えっ?」
「アメ、あげる、オイデ」

 どう見ても外国人の子供が、拙いながらも言葉を必死に繰り返している。ゾロを叱るような顔を見せたたしぎの前に立ってゾロを背に隠し、必死で男を指さす。
 男の顔が、まずい、という表情に歪む。

「……この男の人が、君に、飴をあげるからおいでって言ったんですか?」

 ジェスチャーを交えながらたしぎが確認すると、意図が伝わったことが分かったのか、サンジが何度もこくこくと頷いた。

「ゾロ君は君を守ろうと……あっ! 待ちなさい!」

 不利を悟った男が一目散に駆け出した。しゃがみこんで目線を合わせていたたしぎが出遅れ、逃げられる、と誰もが思ったその瞬間、金色の風がゾロとたしぎの間を駆け抜けた。サンジだ。
 公園に昔からある、可愛いと不気味の間にいるくらいの顔つきをした謎のパンダのスプリング遊具を蹴り、その反動で放たれた一本の弓のように鋭い蹴りを男の尻を蹴り飛ばす。まったく、見惚れるほど見事なフォームだ。
 男は逃げようとしていた勢いもあって思いっきり前に吹っ飛び、殺虫剤を噴かれたゴキブリのようにぴくぴくしている。
 そんな男の姿を眺めながら、ゾロは眉間にしわを寄せた。

(もしかして、おれが助けに入る必要なかったんじゃねェか?)

 ゾロが、サンジを見た目だけで弱いものと認識していた考えを改めている中、ぽかんとしていたたしぎが我にかえり男を取り押さえる。そして、次からはすぐに大人を呼びなさいとパンダの隣にいるカエルのスプリング遊具に対して説教をしてから、たしぎは男を派出所に連れていった。あそこには白髪のゴリラみたいな巡査部長がいる。男が生きて派出所を出られるかは五分五分だなとゾロは思ったのだった。


 それ以来、ゾロとサンジは学校が終わった放課後につるむようになった。
 あの時みたいに嫌なことをされそうになったら嫌だ触るな死ねとちゃんと言えるようにならねえとだぞ、と教え込み、ゾロの新品そのものの国語の教科書を一緒に開いて勉強するようになったのだ。
 もちろん遊び盛りの子供二人がそれだけで済むわけもなく、勉強以上に一緒に遊びまわった。
 何より喜んだのはゾロの母親で、ゾロはサンジといれば勉強するし、サンジ自身を着せ替え人形にできるしで、放課後にサンジがゾロの家に入り浸っていると聞いて恐縮して菓子折りを片手に謝罪の為顔を出したゼフに、むしろこちらからお願いしてでも来てほしいと母は頭を下げたくらいだ。

 約束なんてしなくても、二人は毎日一緒だった。ゾロが道場から戻るまではサンジは母のおもちゃになり(たまに父も交えてマリカーとかで遊んでいるらしい)、帰ってきたゾロを様々な女装でぎょっとさせたりドギマギさせたりしながら日々を過ごし、サンジは半年もすればだいぶん日本語を喋ることができるようになっていた。

 そしてとある日、いつものように道場から帰ったゾロを出迎えたのは、派手なクラッカー音だった。

「オカエリー」

 今日はきらきらしいゴスロリ衣装ではなく、普段の格好にエプロンをしているだけの姿で、クラッカーよりもそっちのほうにドキドキさせられてしまいゾロは言葉を失った。ゾロに向けてはなったクラッカーを手に持ったサンジはゾロの動揺に気づいていないのか、まだ靴もちゃんと脱げていないゾロを引っ張ってリビングに連れ込み、待てって、と制止するゾロの言葉も聞かず、どーんとドアを開ける。

 簡素ではあるが手作り感が温かい部屋の飾りつけに、「ゾロくん おたんじょうびおめでとう」とかなりのヘタ字で書かれた手作りポスターが貼られており、サンジがはしゃいでいる理由をそこで初めて思い出したゾロだ。

「おう、ありがとうな。おまえ一人でやったのか?」
「今日、ママさんパパさん、帰り遅い。おれ、一緒に祝えない、だから、オネガイした」

 すっかり信頼されているサンジは留守番まで任されるようになったらしい。しかしさすがに夜遅くまでは邪魔してはならないとゼフに言いつけられているため、何とかしてゾロを祝おうとしてくれたようだ。
 腹の中がほっこりするような心持ちで、そっか、と答えて手を引かれるままにテーブルの前に用意された椅子に座り、テーブルの上に置かれた白い箱に目を落とす。

「ジャーン!」

 レアチーズケーキだった。本業のシェフであるゼフにいろいろ教わっているらしいサンジだが、まだ一人で火を使うことを許可されていないので、こういう選択になったのだろう。
 それは理解できたが、チョコレートで、ハッピーバースデー、ゾロせんせい、と書いてあり、そこにゾロは首をかしげた。

「せんせい……?」
「おれ、ゾロにいろいろ教えてもらった。だからせんせい」

 ゾロがそこに気づいたことがうれしいのか、頬を少し赤らめてにぱっと笑うサンジ。
 おれは何も、と言おうと思ったのだが、その笑顔に、自分にだけ向けられたその青い目に完全に思考力とか言語力とかを全部奪われて、何も言えず。

「たんじょうび、オメデト、ゾロせんせい!」


 ゾロはただ、すごく長い間固まってしまい。
 ゾロ? と心配そうに声をかけられて、やっと、おう、とだけ返事ができたのだった。
 目の前にフォークが置いてあったので、照れ隠しにケーキにフォークをぶっ刺してしまい、まだカットもしていないのにと怒られたのは、今では照れくさい思い出だ。




「おいクソマリモ、ぼけっと座ってねェで箸くらい出せよ」
「……おう」

 すっかり成長したサンジにそう怒鳴られて、ゾロはのろのろと立ち上がると、腰を上げて箸やグラスを並べ、ビールの栓を開ける。

「それは待てっつーんだこのアホ! 主役が一杯目手酌してどうすんだバカ!」

 もしかしたらサンジがここまで口が悪くなったのは、嫌な事をされそうになったらこう言えと様々な「悪い言葉」を教えた自分のせいかもしれないと思いつつ、自分を祝ってくれようとしているサンジに従って再び座布団に腰を下ろして料理の盛り付けが終わるのを待つ。

「よしよし。ちゃんと待てくらいはできるんだな」
「どんだけ人の事バカにしてんだてめェ」

 今では体育教師のゾロよりもよっぽど賢いサンジだ。ゾロが書けない漢字なんかもさらっと書いてくるし、数字にも弱くない。ゾロを馬鹿にできる権利は十分に持ち合わせているが、それでも失礼千万である。
 文句だけは言いつつも手際よく料理を並べるサンジにすっかり「待て」をさせられながら顔を上げた。

「そんなにバカにはしてねェよ。お前がなんで教師を目指そうと思ったのか今でも不思議に思う程度だ」
「思いっきりしてんじゃねェか」

 やっと準備は終わったらしい。栓を開けてしまったビール瓶を手に取り、酌をしてもらう。普段はほとんど瓶から行く勢いなので自分でやるが、この日だけはいつも酌をしてもらうルールだ。

「ハッピーバースデー、ゾロ」

 グラスをぶつけると、涼やかな音と共にビールの泡が揺れる。一気に飲み干してしまうと、一口だけ泡を舐めたサンジがすぐに次を注いでくれた。

「で、なんで教師だよ?」

 さっそく揚げたての唐揚げを箸でつまむゾロに、ニヤニヤとしながら問いかけてくる。
 さっきまでの幼き頃の回想が再び蘇りかけるが、多分この話をすると自分も相当恥ずかしいし、多分サンジも黙り込むレベルで照れるだろう。

「……別に、なんとなくだ。てめェこそなんで保健医だよ」

 ゾロの言葉に納得した様子ではなかったが、逆に質問で返されてサンジはうーんと唸る。

「おれ、最初は給食のおばさんになりたかったんだよなあ」
「おじさんだろ」
「まだぴっちぴちだぞおれァ」

 それは知っている。なんとなく黙ってしまうゾロに気付いているのかいないのか、ビールをちびちび傾けながら唸る。

「おれが作ったものを未来のレディ達が食べれば、数年後にはナイスバディの美女になれる事間違いなしだろ! 長期的なプランだ」
「野郎も食うだろ」
「なんで教員は学校を選べねェんだ! おれは! 女子高が良かった!!」
「お前みたいのが来たら困るからだろ」

 ぐうう、とうめき声をあげてサンジはビールを飲みほした。あまり強くないんだからやめとけと思いはするのだが、それ以上に酔うとサンジはちょっとエロくなるので止められない自分がいる。
 子供のころはとてつもなく大きく感じた年の差は、大人になってからは忘れかけていたが、ちらりと向けられる色気のある流し目を見ると思い出してしまっていけない。一足先に大人になったサンジにも追いついた。自分だってもういい大人だ。「待て」くらいいくらでもできる、はずだ。

「でもあれなァ、料理を考えるのは栄養士で、作る人は作るだけなんだな」
「じゃあ次は栄養士になりたくなったのか?」
「いや、そうでもねェな。自分で考えてェし、自分で作りてェもん」

 もん、とか言うな可愛いから。ビールを注いでもらいながら内心で突っ込みを入れると、話の続きを待つが、で、と口を開いてサンジは話を締めくくった。

「色々あって保健医に」
「給食のおばさんのくだりいらねェだろ! そのいろいろの部分を話せよ」
「いろいろ、だよ。っつか、お前だってはぐらかしただろ」

 未来のレディが怪我したらすぐ助けられる! 最高だろ! とか熱くなるのかと思ったが、薄く笑って、いろいろだよ、ともう一度呟く男になにも聞けなかった。
 その目が、ゾロの胸の大傷を服を通してみているような。そんな顔に見えたのは、果たしてうぬぼれていいところだろうか。

 サンジがいないときに負った怪我だ。それでもサンジは、この傷の事をひどく気にしていた。

「……誕生日プレゼント、思いついた」
「お、珍しいな。毎回飯とケーキでいいっていうのに」

 なになに、とサンジが正座で身を乗り出して聞いてくる。

「メシ終わったら、背中流してくれ」

 それを聞いて、サンジが揶揄うみたいに片眼を細める。畜生、エロい顔だ。

「一緒に風呂入れって?」

 もちろん、そういう意味、として取ってくれてもいいのだが。生憎と自分たちはまだそういう事をしたことがないので、いきなり風呂ではハードルが高いだろうし、本来の目的は別だったので否定も肯定もせずに言葉をつづける。

「そこで好きなだけ確認すりゃいい。もうなんともねェよ」

 グラスから手を放してポンと頭を叩いてやると、サンジは驚いた顔をする。
 自分がゾロの怪我があるあたりを見ていたという自覚がなかったのだろう、ポカンとした後ゾロが触れた頭を両手で抑えてサンジは唇を尖らせる。酒のせいだけではないだろう、あの頃と同じように、頬に少しの朱を散らして。

「……お前、昔からそういうトコあるよな。普段は鈍いくせに言葉にしない部分にやけに敏いっつーか」
「惚れた奴の言葉が不自由だったからなァ、鍛えられたのかもな」
「っせェよ」

 ゾロが机に置いたグラスに瓶に残ったビールをなみなみと注ぐと、空になった瓶を床に置き、中指でくいっと眼鏡を持ち上げ、にやりと笑ってサンジは言った。

「風呂、以外で。確認できるシチュエーションがあんだけど、そっちはご所望じゃねェの?」

 普段は鈍い、と言われるだけあってしばらく「それはいったいどのようなものか」という顔をして数十秒サンジの顔をじっと見てしまったが。
 ぐう、と一本取られたような顔になってしまいつつ、矯めつ眇めつしながら唸るように問いかける。

「酒の、勢いじゃねェだろうな。エロ保健医」
「勢いがなきゃできる事じゃねェが、今思いついた事ってわけでもねェよ。っつーか……お前は考えたことなかったのかよ、エロ体育教師」
「考えてたに決まってんだろ……てめェが覚悟できるまで待っててやってたんだ」

 入れてもらった酒もそのままに身を乗り出すと、まあ待て待て待て、とサンジが両掌をこちらに向けてきた。
 覚悟ができたんじゃなかったのかと恨みがましい目で見ると、テーブルの上をトントンと指先でたたく。

「まずは飯。ちゃあんと食え。お前のために、おれが、作ったんだからな」

 殊更、お前のために、の所を強調されて、浮いた尻が自然に座布団に戻る。
 また「待て」をされた形で、今度はゾロが唇を尖らせる番だ。しかし、何を食ってもうまい飯だ。全部食べることに否やはない。
 せいぜいその間に最後の覚悟を決めとけ、と力いっぱい鯵の南蛮漬けを頭から齧る。

 そんなゾロを幸せそうに見ながら、サンジが呟いた言葉に。

「レアチーズケーキもあるしな、せいぜいたっぷり祝われろよ、ゾロセンセ?」

 思わずまた腰を浮かせて、「待て」をさせられるゾロだった。

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