Distance

 剣士で居続ける為に、あまり沢山の情報は必要ない。見ている先は常に最強の座の一点、それだけで良かった。けれど、海賊狩りから海賊になって、仲間も増え、クルーとの生活を続けるにつけてそのスタンスが変わってきた。

 

 ルフィを海賊王にする。それが、自分の野望と同じかそれ以上の優先度を持つようになった。前は、余所見をすることは弱さに繋がると思っていたが、今の自分は確実に以前より強いし、これからも強くなっていく。視野を広げることは弱さには繋がらない。そんな自分を自覚してから、ゾロには一つ気付いたことがあった。

 

 この船のコック、サンジの事だ。

 

 始めはいけ好かない男だと思っていた。女にはへーこらして秋波を送り、男にはゴミでも見るような視線を向ける。コックのくせに戦闘にしゃしゃり出ては怪我をする。純戦闘員であり女にも興味がないゾロとはまさに根っこから違う男だった。

 

 だが、ゾロがクルーの一員として自分の野望だけでなく回りへも注意を配るようになってから、気が付いた。この男はゾロが最近ようやっとするようになった事を、初めからしていたのだ。職業柄というよりはこの男の性格なのだろう。少し負けたような気がして気に食わない。

 

「オラ、クソ剣士。ドクターチョッパーからお薬のお届けだ。軽く胃に入れてから飲めよ」

「……おう」

 

 ひんやりと冷たい鉄のじゅうたんの上で胡坐をかき瞑想の姿勢を取っていたゾロはそのコックの声を聞いて薄く目を開いた。野生動物並みに嗅覚や聴覚は敏感なつもりだが、バーソロミュー・くまに手酷くやられしばらく昏睡してからというもの、体の調子は未だに優れない。一日数回の飲み薬と包帯の取替えをチョッパーに義務付けられており、要らぬ世話だと振り払うこともできない。

 

 あの日以来、サンジはあまりゾロと口を利かなくなった。あの時の事を怒っているのだろうと思う。悪かったなどとは思っていないし謝るつもりも毛頭無いが、そんな冷戦状態の相手にもサンジはこうして心をつくして食事を提供してくる。差し出されたのは小さな大福とお茶、そして薬を飲むためのぬるい白湯。今までの自分だったら何を思うでもなくただ流し込むだけだっただろう。

 

「コック、待て」

 

 食器はもってこいよ、と煙草の煙が展望室に流れ込む前に金色の頭を引っ込めようとしたサンジを、ゾロは衝動的に呼び止めた。ここ数日必要最低限の会話しかしていない男は訝しげにゾロを見る。まだ入ってこようとは、しない。

 

「……すぐ食い終わる。食器もって行け」

「横着すんじゃねェよ……」

 

 言い訳じみた言葉を面倒くさいが故にと素直に勘違いしたサンジは、身軽に身体を梯子から乗り上げてゾロの横を素通りし、窓際のベンチに腰をかけた。長い足を組んで窓縁に肘を乗せどこか遠い目で海を眺めている。普段だったらガチャガチャとやかましく文句を言ってくるだろうに、やはりゾロと会話をする気がないらしい。しばらくゾロの食事が立てる音だけが部屋に響いていた。

 

「……多分、てめェは気付いてねェと思うが」

 

 沈黙に耐えかねると思っていたのはゾロだったが、言葉を発したのはサンジからだった。その切り出しはゾロが気に病む――というのは大袈裟だが、ここ数日考えていた内容について話し出すのだろうと思われるそれで、自然と大福を咀嚼する動きが止まった。

 

「もう、やめる。……今までウザかっただろうが、クソ鈍いてめェのことだ、可愛い子犬に甘噛みされた程度のもんだと思えるだろ、さらっと忘れろ」

 

 一体何のことだろうか、とゾロは咀嚼を再開しながら考える。ここ数日コックがやめた事と言えば、ゾロとの必要以上の会話くらいのものだろう。ゾロはもちろんサンジもまだ怪我が治りきっていないので、喧嘩禁止令をきつくきつく言い渡されている。お互いにそれに従うようなタマではないはずだったが、サンジがゾロと接触しないので自然と衝突も起きない。

 

 その今までの衝突を「子犬に噛まれた」程度と評するには些か暴力行使が過ぎた内容だとは思うが、やられればもちろんやり返すのでサンジの一方的な言い方には少し首を傾げざるをえなかった。しかしまあ、自分も本調子ではない。下手な喧嘩で治りが遅くなるよりはマシだとゾロは茶を口の周りについた粉ごと飲み下し、ついでに種類も量も解せない薬を水で一気に飲んだ。

 

 ゾロはどう返事をすべきなのか迷ったが、サンジは別段ゾロの返事を待っていた風でもなく、ゾロが伝えた通りに食器が開くのだけを待って、その食器が開いたらさっさとそれを持って展望台を出て行ってしまった。今度こそゾロが止める隙はなかった。

 

 サンジが何をやめたのか、気がついたのは意外に早く件の会話があってから三日ほど経ってからだった。会話が無くなったと思っていた分は徐々に回数が戻ったが、やはり今まで物とは違った。喧嘩は小競り合い程度ならするが、ゾロの体調を慮ってというよりはどこか能面のような目でゾロを見るので、ゾロの方が喧嘩を続けようという気にならない。

 

 チョッパーに怪我を理由に晩酌を禁止されることはあったが、その時はサンジはチョッパーと結託してゾロに禁酒、もしくは酒量を格段に減らすようにコックの権限を最大限に利用してゾロに対してグチグチ言ってきた。その代わり、すきっ腹に酒を流し込むなと毎回同じ事を言いながらその海域の気温にあったツマミを出してくれていたのに、それが無くなった。

 

 無くなったと言うと語弊がある。ゾロが酒を求めてラウンジへ顔を出すと、サンジはゾロを一瞥して常備菜を小鉢に用意すると「食器はシンク」と言い渡し、飲んでいい酒はこれだけ、と一瓶を率先してテーブルの上に置き、特に会話もなくキッチンを出て行く。

 

 今まではゾロが食べ終わるまで何かしら仕事をしていたり、気が向けば一緒に飲んだりしていたっけか、と一人のラウンジでふと思い出した。

 

「おい……クソコック」

 

 扉が閉める寸前にほんの小さな声で呼びかけてみたが、ばたんと閉まる扉の音にそれは掻き消された。そこから芋づる式にゾロは気付いたのだ。サンジはもちろん性格からして周りに気を配るタイプだが、その上でさらに自分に対しての「特別扱い」があった事を。

 

 例えば鍛錬の後に持ってこられるドリンク。例えば自分の分だけ少し強めにブランデーが効いたケーキ。例えばナイショで食べさせてもらった焼き立てパンの耳。例えばゾロが見張りのときに差し出される好物。例えば、喧嘩のときに交わる熱い、視線。

 

 きっと、サンジがやめたのはそういうことだ。ゾロとの距離を、ライバルだの喧嘩仲間だの、それ以外の何か、そういう所から一切合切引き剥がして、ただの仲間との距離に変えたのだ。

 

 やめると言ったものの出されたのは血になりやすいレバーだのほうれん草の白和えだのだったりするところはサンジがコックたる所以であり、かつ、ゾロが大怪我人であるからに他ならない。大酒のみのゾロだから、寝ぼすけのゾロだから、だからこそ行われていたサンジの行為全てと、あと、もう一つ。

 

『ゾロ。それ、その酒に合うだろ?』

『海老マヨ食ったことねェの?へェ……なァ、今度握り飯の具にしてやるよ!ゾロ、てめェクソうまくてビビっておれに土下座すんぜ、絶対!』

『ッたく、こんがりローストされやがって。来い、ゾロ。包帯巻きなおしてやる』

『なあ、ゾロ』

『ゾロ』

 

 名前が、呼ばれなくなった。

 

 

 

 

 

「今日はおれが見張りだ。夜更けの鍛錬は遠慮しろ」

 

 夜は特別冷える海域で、サンジは毛布を膝に掛けてあの日ここで話をしたときと同じ様に外を眺めていた。ゾロが顔を覗かせた瞬間、視線をゾロに向けもせずにそう言い放った。顔を入り口から半分も覗き込ませる前にそう告げられ、それでもゾロはそれに従うことはせずに多分自分が一番行き来した出入り口の閉めた。鉄の蓋が重い音を立てる。

 

「酒ならラックの一番上。一本だけ。食料庫の右奥、クラッカーが置いてあるから胃が空っぽなら一緒に食え」

「酒じゃねェ」

 

 サンジはそれに返事をしなかった。やはり能面を思わせる無表情でゾロを見もしなければ返事もしない。

 

「どういうつもりだ?」

「……何が」

「ここ数日のだ。一体何を不貞腐れてる」

 

 わざとサンジの怒りに触れそうな言葉選びをしてみたが、サンジはぴくりとも動かなかった。ただ、瞬きをしたまま睫が伏せられて、意外にその金色の睫が頬に影を落すほど長かった事に気付く。

 

「便利な小間使いが居なくなって戸惑ったか?大丈夫だ、てめェは元々ジャングル出身だ。野生に帰れば人間様の贅沢な暮らしはテメェに過ぎたもんだったと納得してすぐに慣れる。もうちっと辛抱しろ」

「……てめェ、この間の」

「なにもなかった」

 

 そうだろ、と頬杖をついたサンジに遮られてゾロは言葉を切らざるをえなかった。それは自分の台詞で、言ったことは撤回しない。サンジがこうなった事はアレがきっかけだったことは間違いないだろうが、言及はできなかった。

 

「……コック。こっち向け」

「断る。おれは星を数えてんだ、判んなくなるだろ」

「コック」

「近寄るな。出て行け」

 

 ゾロのブーツが鉄の床を踏みしめる。足音を隠そうともしない無遠慮な歩みに初めてサンジが感情を露にして語調を荒げた。それでもかまわずにサンジの両手首を掴み強引に上を向かせると、目は睨むように眇められているが、やはり表情豊かなこと男だからこそ酷い違和感を感じさせる無表情。

 

 蒼い目が泳ぐ。ゾロの鳶色の瞳と絡み合うまいと視線が空を巡り、口元から深い溜息が漏れる。

 

「やめるっつったろ?もう面倒になったんだよ、てめェのお守りが」

「……別に頼んだわけじゃねェ」

「そうだろ?じゃあボランティアを止めるのもおれの勝手だ」

 

 そんな事を言いたいわけではないのに、サンジの憎まれ口にいつものような調子で反論すれば正論としか言いようのない返答をされてゾロは黙る。何しろこの男は口が回るし、思った事を言わない。本心を引き出せるとは毛頭思えなかった。

 

「そのボランティアとやらはテメェが止めてェならいい」

「じゃあ何が気にくわねェ?聞くだけ聞いてやるよ」

 

 まだ視線を合わせないままにサンジが言うので、ゾロは暫しの間逡巡して手を握ったまま呻くように呟く。

 

「てめェ、おれの名前、呼ばなくなったな」

「……ッ」

 

 初めてサンジが動揺らしい動揺を見せた。息を飲んで捕まれた手を反射的に振り払おうとしてくるので、ゾロはサンジの両手をそのまま壁に縫い付けた。膝が容赦なく金的を狙おうとするのを間一髪太腿を膝で押さえつける。不利な体勢からの膝でもサンジの蹴りの威力は凄まじいものの筈なのに、無理に足を押さえつけたゾロの体には特に大きな衝撃はなかった。この状況でもなお怪我人の様子を慮るサンジの人の良さに笑いも漏れる。

 

「こっち見て、おれの名前、呼べ」

「なんでだ」

「おれがそうして欲しいからだ」

「勝手な事言うんじゃねェ!てめェはおれの事!」

 

 巻いた眉が生え際につくんじゃないかというほど吊り上り、ここしばらく見ていなかったサンジの怒り顔にどこか安心しながらゾロはサンジの額に額を無理やり押し付け、初めて、その名前を唇に乗せる。

 

「サンジ」

 

 サンジの目が見開かれる。目が零れそうな、と言う言葉はなるほどこういう時に使うのか、とゾロは妙に納得してようやく絡んだ視線のその先の蒼い瞳を容赦なく見つめた。零れると思ったのは目玉だけでなく、じわりと浮かぶ透明な。

 

「……だめなんだ」

「何がだ」

「おれァ、だめなんだ。お前が、ゆる、許せねェ。てめェの、てめェの命で、てめェが」

 

 過呼吸になりかけたように言葉が覚束無いサンジの手をそっと離して、背中を撫でた。サンジは促されるままにゾロの肩に額を乗せて項垂れる。なにもなかった。その言葉をやはり覆す気はなくて、ゾロはただ頷いて背中をなで続けた。サンジには解っている。最後まで言い切ってはいけない事。最後まで言い切れば、それをゾロに同じ言葉で返されること。

 

「……二度目があったら、おれァもう、堪えられねェ。そうなる前に、止めた。おれは、お、おれは」

「アホコック。……いいか、よく聞け。おれァてめェが言う通り鈍い。てめェが徐々に離れてって、初めて懐が冷えてく事に気付いた。……二度目なんかねェ。おれは今以上に強くなる。だから、またおれを見てろ」

 

 二人とも大概アホなのだ、とゾロは苦笑いをする。ゾロはサンジに感化されて集団の中の個としての位置を意識し、サンジはゾロに感化されて集団の中の互いの距離感というものを取り出した。近付こうとすれば相手が離れ、相手が近付けば自分が離れていた。見ている先は同じものなのに。

 

「てめェはいつもおれの事を甘やかしてくれてたのにな」

「……ッんなことはねェ!お守りだっつってんだろ!!」

「お守りでも何でもいい。止めんな。名前呼べ。……てめェに自覚させられた途端にフラれるなんておれァ認めねェぞ」

 

 ふぇっ、とじわじわと滲み出した涙も引っ込むくらいビビリ倒したサンジが近すぎる顔を離そうと顔を引いて壁にコツンと頭頂をぶつける。

 

「名前呼べ」

「て、てめ、さっきからそればっか」

「呼ばねェとキスするぞ」

「はぁっ!?」

 

 サンジが勢いよく吐き出した息は、ポットに入れて持ってきたのだろう紅茶の香りが僅かに香った。それこそ吐息が触れ合う位置でゾロがサンジの蒼の瞳を覗き込み、鼻先を触れ合わせると、サンジはぱくぱくと薄い唇を開閉し、そして、くしゃりと顔を歪める。それでも口を開こうとしないサンジに、ゾロが、あァ、と続ける。

 

「違うな。……呼ばねェと、キスしねェぞ」

 

 今度はサンジが呆気に取られた表情になる。黙ったままのサンジにゾロの顔がどんどんと不貞腐れたような表情になっていくのと非対称的に、サンジの顔がどんどんと見慣れた、「ホンットに仕方ねェな、こいつは」と言う笑顔になっていく。そう、意識して見ていなかっただけで、この笑顔だってゾロにだけ向けられる笑顔だったのだ。

 

 そっとサンジの指先がゾロの頬に触れる。そして、ゆっくりと、ゆっくりと、見慣れた形に唇が開いた。

リリース日:2012/05/04

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