Weak point(s)

「ルフィが海におちたぁぁぁ!!」

 

 ウソップの叫び声で、ウトウトと眠りの世界に入りかけていたゾロはその叫びの内容が看過できぬキャプテンの危機とあって目を覚ました。その後すぐにこの船のコック、サンジの「バカが!!」と言う吐き捨てるような声が聞こえたので、自分が行かねばと勢いよく起こした上半身はそのまま様子を見に行くためだけの動きに変わった。なんだかんだ海での生活が一番長いのはあのコックだ。泳ぎも当然奴が一番うまい。放っておいても心配は無いだろう。

 

 ゾロがたどり着いたときには甲板にはウソップとサンジのジャケットだけが残されている。半分寝ていた所為かルフィが海に落ちる音は聞こえなかったが、サンジが海に飛び降りる音もまたゾロにははっきりとは聞こえなかった。それほどにサンジの飛び込むフォームは美しいのだろう。それを見届けることが出来なかった事になんとなく残念なような気になって、残念ってなんだ、とその意味のわからない思いを頭を振ることで打ち消した。幸い寝起きであったので不自然には思われなかったらしい。

 

「今度はなにやってたんだ」

「あ、ゾロ!」

 

 おろおろしているウソップは両手でおやつの乗ったトレイを持っていた。どうやら今日のおやつはクッキーだったらしい、山のように詰まれたそれをウソップの後ろから近づいて一つぱくりとやる。男連中用に作られたそれはパラソルの下で呆れたようにルフィが落ちたと思しき方向を見ている女たちの机の上にあるようなキラキラゴテゴテしたものと違い、シンプルで量のあるシロモノだ。かといって飾り付けの類が違うだけで質が落ちているというわけではないところが、サンジの隠れた優しさを如実に表している気がした。

 

(だから何だってんだ)

 

 イラッとしてゾロは食べかけのクッキーを口の中に放り込んで奥歯で噛み砕いた。なんだか最近サンジのことが気になって仕方が無いのだ。以前は確かそれが「気に触る」と言う感じで、寄らば斬る蹴るの大喧嘩だった。今も喧嘩は絶えないのだが、どうにも最近負けが込んでいる。本気でやれば純戦闘員である自分がコック兼戦闘員であるサンジにやられるはずなど無いのだが、どうにも打ち合っている最中にあるものに目を奪われてしまうのだ。

 

 サンジの目である。

 

 相手の動きを先読みするにあたり、相手の眼を見るのは有効な戦法だ。勿論眼の動きだけでフェイントを掛けられることもあるが何も眼だけ見ているわけではない。足の筋肉の張り詰め方、軸足の向き、傾いた身体の角度、ありとあらゆるものを本能的に見ている、はずなのだ。だが、あの海とも空とも言えるしそうでないともいえる、表現しがたい混じりっけ無しの蒼い目がキッと自分を睨むのを目の当たりにすると、身体の動きが鈍る。その隙を見逃すサンジではなく、吹っ飛ばされて壁だの船べりだのに激突して、その音を聞きつけたナミあたりに「やめなさい!」と怒られてサンジが仕事に戻るといった具合だ。

 

 正確に言えばゾロはダウンしたわけではないのでサンジの戦線離脱によるノーマッチだということにしてもいいかもしれないし、サンジはわざわざゾロを吹っ飛ばした事などナミに声を掛けられた時点ですっかり忘れている風なので、いちいち蒸し返すのもなんだし、けれどやられっぱなしは癪に障る、と最近ゾロは悶々としているのだ。それを思うと甘いはずのクッキーが砂でも噛んでいるかのように感じられる。

 

 未だにおろおろしているウソップを見ると、ゾロは眉間によっていた皺をさらに寄せた。

 

「何やってんだクソコックは……いくらなんでも遅かねェか?」

「る、ルフィはお前の振り回してる錘と一緒に落ちたんだ!そのせいで普通より早く沈んでるのかも……」

「はァ!?なんでそんなモンと!」

「出しっぱなしにしてあったのをふざけて振り回して手足が絡まって落ちたんだよ!……べべべべつにお前が悪いとか言ってないだろー!?」

 

 途端に目付きの悪くなったゾロに慌てて言い訳するウソップが体制を崩したので、山のように盛られて奇跡のバランスをとっていたクッキーが崩れて二つ三つ地面に落ちた。それを拾い上げてウソップの口に突っ込むと、心配そうにそろそろナミやロビンが腰を浮かしたその時。

 

「ぶぁっ!!!」

 

 普段よりも苦しげな声を上げてサンジが漸く海面から顔を上げた。すかさずフランキーが紐のついた浮き輪を投げつけると、素早くその輪に片足を通して両手でまだ半分沈んでいるルフィを抱え上げる。どうやら海中で錘にからんだルフィの手足を解くのは諦めたらしい。フランキーに促され二人で縄を引き上げると途中まで引き上げた所でサンジが気合一発。

 

「このっ……クソアホキャプテンがぁッ!」

 

 どごっ、と打撃音が聞こえてルフィの体が登りきる前に蹴り上げられた。引き上げる縄が一気に軽くなったと思ったら、船長が吹っ飛んでくる。確かにゾロが振り回している錘の一つが手足に絡まり、中央の穴部分に手がはまり込んでしまっている。サンジも海中でなんとかしようとしたのか、手首がすれて少し赤くなっていた。

 

「げぇっほ、げほげほっ」

 

 かなり長い間潜水していたサンジは先ほどの蹴りで酸素切れを起こしたらしく咳とともに酸素を貪っている。フランキーは甲板を傷めないように蹴り上げられたルフィをキャッチしに行ってしまったから、サンジを引き上げるのはゾロに一任された。以前の自分だったらこのままぱっと手を離して「手が滑った」くらいのことはしてのけるくらいの間柄だったはずなのに、何故かルフィをぶら下げていたときより縄を引き上げる速度が上がった。いや、別段早くなったところで不思議は無いだろう。重石つきのルフィがいなくなればその分軽くなるのだから早くなったところで不思議は無い。何も。

 

 自分に言い訳しながら縄を引っ張りきると、船べりに凭れ掛かるようにしてサンジが上がってきた。ゾロには目もくれないし礼の一つも無いが、別に欲しいと思ったわけでもない。ただ、息を切らしてペッたりと顔に張り付いた髪を払ったサンジの瞳から目が離せなかった。当然その視線に気付いたサンジがすぐに息を整え、顎から滴る海水を手の甲で拭いながらゾロを睨み返してくる。

 

「んだてめェ何見てやがる……元はといえばてめェがあのクソ鉄の塊をそこらへんに放っておいたからこんな事になったんだろうが!ちったぁ反省しろ。何ならおれに額に地面こすり付けて謝ってくれてもいいぞ」

 

 何も言っていないのにこの勢いである。普段だったら即座に言い返すところだが、流石にこの状況ではそうも言ってはいられない。サンジの目から視線を逸らさないまま、ルフィの腹を押して海水を吐き出させているチョッパーの名前を呼んだ。

 

「そっちが終わったらこっちこい!クソコックの目がおかしい!」

 

 

 

「結膜下出血だね」

 

 いかにも医者っぽい小さなレンズとライトでサンジの目を照らしていたチョッパーは、特に深刻な様子も無く言った。医務室に移動をされたらそこについていく理由が無いのでどうしようかと思ったゾロだったが、チョッパーがその場で診察を申し出てくれたためサンジの症状を聞くことが出来た。

 

 サンジの白目部分が血がにじみ出ているみたいに真っ赤になっているのだ。いつもは青味がかった綺麗な白だったり、ちょっと寝不足のときはほんのり桃色がかって充血していたりするけれど、基本的には「白目」の域を脱さないものだった。

 

 それが今は、ただでさえ色素の薄いサンジの目を、ちょっとつつけば血でも零れそうなくらいの赤さに染まっているのだ。「泣きはらした」とかそういうレベルでない。とにかく赤い。何かの魔物みたいだ。これではまた小競り合いが起こったとき、また視線を奪われてしまう。それは困る。

 

 怪我とは切っても切れぬ縁のある海賊家業であるが、充血と言うには酷過ぎる赤さでかなり痛々しい。チョッパーがいうには結膜の血管が寒い海に深く潜りすぎたせいで水圧に負けて切れたんだとか。本人が言うには痛みは無いそうで、到底信じられないレベルの赤さだったが、内出血と同じで本当に痛みが無い場合の方が多いと医師に説明されれば納得せざるを得なかった。まあ、納得しようがせまいがゾロが何かを言える立場ではないのだが。

 

「目薬処方しようか?」

「日が経ちゃ治るんだろ?ならいいさ」

「うん、けど治るのが早くなるから欲しくなったらいつでも言ってよ」

 

 おうサンキュ、ととても目薬を貰いにくるとは思えない軽さでそう言うと、サンジは着替える為に浴室へ行ってしまった。鏡で見て自分でびっくりして戻ってこりゃいいとゾロは思ってルフィの手足が外れた錘を持ち上げながら思ったが、浴室からサンジの悲鳴が聞こえる事もなければ、でてきたサンジがチョッパーの元へ来る事もなく、復活したルフィが早速クッキーを平らげた皿を提げてキッチンへ引っ込んでしまった。

 

「……チョッパー。目薬くれ」

「え?ゾロも目がおかしいのか?」

「いや……クソコックにささせる。あの目ェ見たらルフィも気にするだろ」

 

 何しろ落ちたのはルフィの不注意だ。ゾロが錘をほったらかしにしていたせいではない。なのでルフィが気にするかもしれない。さっきまでこれっぽっちも敬愛するキャプテンの心境等慮っていなどしなかったくせにそんなめちゃくちゃな論法を口に出すと、黒目がちな瞳をぱちくりさせて笑って言う。

 

「気にしねェと思うぞ?」

「いいから出せ」

「あわわわ……わかっ、わかっ!」

 

 途端に人相を悪くしたゾロにチョッパーはあばあば慌てながら赤目の料理人のための目薬を処方するべく、医務室へとちょこまか走っていった。優秀な船医はすぐに目薬を用意して持ってきたが、あまりにビクついていたため目薬を受け取ることの方が時間がかかったのだった。

 

 

 

「おい、させ」

「生憎とおれの包丁はマリモを突き刺す道具じゃねェんだ」

「違う。目薬だ」

「あァ……?」

 

 にんじんの皮を剥いていたサンジは主語なく突然命令をしてきたゾロにあっさりとお断りの返答を入れたが、出てきた先ほど聞いたばかりの言葉に額に青筋を浮かべて振り返る。やはりギョッとした。目が赤い。そして、赤眼のコックは、ニヤァ、と笑って包丁とにんじんを持ったままゾロに歩み寄ってくる。

 

「てめェ、もしかしてビビってんのか?おれ様の目に」

「……んだと?」

「そういやァ、最近喧嘩しててもおれの眼光にたまァにビクッとしてっだろ。お?剣豪様とあろうものが」

 

 流石のゾロもイラッとした。心配して言ってやってんのになんだその言い草は。いや、別にコックを心配してるわけじゃない。コックがこんな目をしていたら気弱なウソップやらチョッパーやらは目が合うたびにビクッとするだろう。自分だって毎回ギョッとするくらいなのだ。チョッパーは否定したが、ルフィだってかけらほどの罪悪感を感じるに違いない。そんな事をグルグルと考えながらも何も応えないゾロを不審に思ったのか、サンジは半眼になってゾロを睨む。そうすると目蓋の縁は少し白かったのに、もう完全に赤眼の邪眼だ。

 

「……クソ剣士?」

「てめェのほうがビビッてんじゃねェのか?」

「……なんだと?」

 

 訝しげに掛けられた言葉に何か返さねば、と売り言葉に買い言葉、サンジの言葉を鸚鵡返しに返したゾロはサンジが怯んだのを意外そうに見た。何気なく返した言葉だったが、どうやら何か図星に触れたか。おおよそのアタリをつけて腹巻から目薬を取り出した。サンジの顎がちょっと引くのを見て、ビンゴだと悪い笑みを浮かべる。

 

「てめェ目薬が怖いんだろ」

「アァッ!?」

 

 サンジの声が怒りのあまりかそれとも動揺を隠し切れなかった為かひっくり返った。ゾロは目薬を突き出したままずいと一歩歩み寄る。サンジはゾロが近付いただけ一歩引いた。

 

「じゃあ何で逃げる」

「汗臭くてムサい野郎には必要以上に近寄らないようにしてるんでね」

「じゃあ机の上に置いてやる。とれ」

「いらねェっつってんだろ!」

 

 あまりにも頑ななサンジにゾロは机の上に目薬を置きながらこれ見よがしに溜息を付いた。正直言ってこの口の回る男に口だけで勝てる気がしない。だが力ずくで目薬を注させようというのも些か無理のある話だ。仕方なくゾロはサンジの弱点を突く事にした。

 

「そんじゃァこの目薬はナミにでもやるか……」

「ナミさんに?」

「ただのビタミンだのなんだのが入った栄養剤みてェなモンらしいからな。クソコックが目薬注すのが怖ェってんだからしょうがねェと説明すりゃあいつは使うだろ。貰えるモンは病気以外貰う女だしな」

「だから誰が怖ェっつったんだ!!ナミさんの麗しい瞳のお役に立てるならおれから奉げるわ!」

 

 机の上に置いた目薬に手を伸ばすサンジに、ゾロはひょいとそれを取り上げる。てめェ、と思い切りガンくれるサンジにニヤリと笑って目薬の蓋を指先でつまみ、中の液体を揺らす。音がするほどの量は無いが、チョッパーは朝晩の点眼で一週間分だと言っていたのでそれくらいの量なのだろう。

 

「その真っ赤な目ン玉の奴に目薬を渡されて、ナミがどう思うかだな。何でこいつは自分でささねェんだと当然思うだろ」

 

 再びその弱点を突いてやると、サンジは忌々しげにゾロを睨みつけて―――これがまた赤いので結構な迫力だ―――そして額に掌を当てて肩を落とす。

 

「なんだってんだてめェ。てめェが鉄の塊をほったらかしにしてたからだ、っつったのをらしくも無く気にしてんだったらそれこそおれに絡むのはお門違いだろ。重石を持ったまま沈んだのはアホキャプテンが全部悪ィがこれに懲りて出したもんは片す!おれの目はほっときゃ治る!目薬はテメェが飲め!以上」

「飲まねェよ!」

 

 ゾロは気に触った部分にだけとりあえずの反論を放つと、確かに自分が何故サンジの瞳の事、ひいてはサンジの事をこんなに気にしているのか理解できずに唇をへの字にする。それでもこの目薬をなんとかしてあの赤眼に注してやらねばと気持ちだけが焦る。その時、キッチンのドアが開いた。先ほど甲板でナミとティータイムを楽しんでいたロビンだ。

「紅茶のおかわりを貰ってもいいかしら?」

「あァ、ごめんよォロビンちゃぁん。アホマリモに絡まれてなければロビンちゃんにご足労させることもなかったのに!おいマリモ土下座して謝れ!!」

「誰がするかアホコック!」

 

 すっかり水を差された形になったゾロは忌々しげにダイニングチェアを引き腰をかけた。ロビンが出て行けばまたこの押し問答を続けるつもりだ。ゾロのその態度で考えを理解したらしく、サンジは嫌そうに振り返ってゾロを見た。そのサンジを見たロビンが少し驚いたように、あら、と声を上げる。

 

「随分赤くなってしまったわね、目。船医さんに見てもらっていたのは見たけれど」

「あァ、なんとも無いから心配しないでね!?痛くもねェし、ほっときゃ治るってチョッパーが」

「目薬を注したらもっと早く治るのね?」

 

 にっこり、とロビンが笑う。聞いていたのか外まで漏れていたのか、恐らく前者だろうとゾロは踏む。おもわず顔を顰めると、サンジはサンジで珍しく女の前で微妙な顔をした。

 

「え、えァ、まァ……気休め程度に?」

「船医さんが処方したものなら無駄にしちゃ駄目よ?薬剤も、食材と同じ。無尽蔵ではないから」

 

 にこりと笑ってサンジが新しい紅茶ポットを用意したトレイを持ち、固まってしまった彼に背を向ける。途中、椅子に座っていたゾロに意味ありげな笑みを向けたことから、どうやらロビンなりの援護射撃だったらしい。なぜロビンがそのような事をしたのかはわからないが、頼んだわけでもなし借りが出来たと思うでもない。だが妙に尻が落ち着かない気分になりながらゾロは肩を竦めた。扉が閉まる音でサンジが硬直から戻ってくる。

 

「で?目薬はナミにやるのか?」

「……てめェがロビンちゃんに何か」

「おれがあの魔女達に頼み事なんかするわけねェだろ」

「うちのレディたちを魔女たァなんだボケがァ!!」

「カッカすんな。またそのちっせェ頭に血が上って目が赤くなんぞ」

 

 サンジが呻いて、ゾロが机の上に置いて人差し指を蓋の上に置いたままにしていた目薬を奪い取った。水に晒されていた所為で冷たいはずの指先が何故か熱く感じて、ゾロは少し驚いて手を引っ込める。やりゃいいんだろやりゃあ、などと威勢よく言ったサンジはゾロの隣の椅子を引いて距離を作ってから座り、ようやく今まで一度も開けられていない目薬の蓋を手にとって、その先端を見つめている。

 

「……どっちだっけか」

「少なくとも隠れてねェ方の目は赤いな」

 

 サンジは意を決したのかごくりと唾を飲み、やっぱり怖ェんだな、と内心笑いが止まらないまま肘をついているゾロを尻目に天井をにらみつけてから目薬を点眼しようと試みる。が、傍目から見ているゾロから見てもまるで目の中に入っていない。

 

「何やってんだ、零れてるぞ」

「……はいらねェ」

「わざとか」

「違う!やった事ねェからコツがつかめねェんだよ!」

 

 怒り出したサンジの頬は失敗目薬で濡れている。なんだか泣かせたような気になってぐっと詰まるゾロは、それでも果敢に目薬にチャレンジするサンジの手から目薬を零さないように奪い取った。すぐにその瞳が怒りに燃え、白目の血の色が濃くなったような錯覚を覚える。このままでは埒が明かぬ。目薬を注さねば赤目が治らないわけでは無いが、自分の注意力を奪う要素は早く治るに越したことはない。

 

「やってやる」

「ハァッ!?」

 

 また声が裏返った。それに続いて罵詈雑言が飛んでくると思ったが、サンジは何度か口を開いてはそれをやめ、を繰り返す。酸欠の魚みてェだな、とゾロは思ったが口には出さない。そして忌々しげに舌打ちをすると、サンジは観念したように言う。

 

「……頼む」

 

 その殊勝な態度に言い出したゾロのほうが驚いたが、恐らくロビンの一言は殊の外効いたのだろう。食材のように薬剤だって無尽蔵ではないのだという事が。殊勝な態度は悪くない。しかしその次の動作が問題だ。椅子をゾロの方に近づけて向き合うように座り、細くて長い足を左右にがっと開いて両手でその足の間に置いている。そこまではまあ、百歩譲って、いいとしても。目薬を注せというのに、んっ、とちょっと上目向きになって目を閉じ顔を―――正確には唇を突き出しているように見える。

 

 ボコ、と音がしたような気がした。多分血液が沸騰した音だ。実際にはそんな音はしていないので、沸騰も気のせいであるはずだがゾロは一瞬固まってしまった。

 

「あ……アホか!!目薬注すのに目ェ閉じてどうする……!」

「あ、そうか」

 

 ゾロが満身の力を混めてそうツッコミを入れると、サンジはそれも尤もだと目を開いた。やはり白目は赤く視線は自然とそこに行く。

 

「どうすりゃいいんだ」

「…座ったまま上むいてろ」

 

 ゾロは静かに呼吸を整えながら立ち上がり、そのままのポーズで背凭れに小さな金髪頭を預けるサンジの後ろに立った。じっと見つめてくる色は青。痛々しい赤に囲まれていても、その青はやはりゾロの身体を蝕む。いっそこのまま抉ってしまえばこれで小競り合いは負けなしになる、なんて物騒な事を考えながらカサ付いた親指で薄い目蓋の皮膚を引っ張る。

 

 自分に向けた目はいつも眇められていることが多いので気付かなかったが、大きな目だ。そして、指先を擽る睫も当然ながら金髪。肌は白く仰け反った首筋には青い血管が浮いている。目、頭、喉、人間の弱点をたやすくゾロの前に差し出しているサンジは、ゾロが震えを押さえながら目薬の容器を眼前に持ってきた事にぴくんと身体を震わせる。右手で目蓋を持ち上げている指先にそれが伝わり、思わず目薬を遠ざける。

 

「……お、オイ。早くしろよ」

「ちょちょっと待て、一滴も無駄にしたくねェんだろ」

「そりゃそうだが」

 

 一度離してしまった親指の腹で再び目蓋を押し上げると、その指先を固定する為に掌を側頭部に当てた。さらさらの金髪が指先にからむ。そしてゾロは戦いのときよりもずっと苦心しながら、ようやく赤と青の混じる目に一滴、チョッパーの心遣いの目薬を注すことに成功したのだった。

 

「う」

 

 サンジが小さく呻いて点眼を受けた目を反射的に閉じる。こめかみを辿って落ちた水滴がぽろりとゾロの手に触れてゾロは慌てて手を離した。ちゃんと目に入ったのだから今流れたのは無駄になったものではないだろう、と思いながら何故か濡れた手を拭う事が出来ない。

 

「おい、擦るなよ」

「わかってる!」

 

 サンジが手を持ち上げて顔を触ろうとしているのに気付いて釘を刺すと、サンジは慌てて手を下ろした。あー、とか、はー、とか言いながら濡れた睫を何度も瞬かせている。

 

「おい、治ってるか?」

「んなすぐ治るわきゃねェだろ。こりゃ一週間分の目薬だ」

「一週間もすんのかよ!」

「しかも朝晩」

「なんだと……」

 

 サンジが絶望にも似た声を出すが、ゾロにはどうしようもない。チョッパーが作った目薬を最後の一滴まで有効活用するには、サンジの目に点眼する以外に無いのだ。そして、立候補としたとは言えこの一週間の点眼はゾロが行う事になったらしい。何故って、サンジが目薬をかえせとかいわないし、ゾロがわざとサンジの視界の中で目薬をポケットに入れても文句の一つも言わなかったからだ。

 

「口ん中がなんか甘ェ」

 

 料理人の敏感な舌が眼孔から口腔まで流れた目薬の味を敏感に感じ取って呻くのを見ながら、そうなのかとサンジの目から零れた目薬を受け止めた掌を見る。ほんの僅かな水分はあっという間に乾いていて、ほとんど痕跡も無い。それが垂れたと思しき掌を舐めてみたが、自分の手汗でしょっぱいだけだ。目線を上げてサンジの唇を見る。こじ開けて舐めたらまだ甘いのだろうか、と、考えて。

 

(いやいや。いやいやいやいや)

 

 額を押さえる。最近邪念に支配されることが多すぎる。こんなだから小競り合いにも負けが込むのだ。なんとか連続瞬きも落ち着いたサンジが息をついた。そんな些細な音にまで耳の注意が奪われる。

 

「あー、でも」

 

 声。声もだ。もっと耳障りな、ただ喋っているだけで自分の闘争本能を著しく刺激してくる怒鳴り声じゃなかったか。

 

「結構気持ちいいもんだな。また頼むぜ、ゾロ」

 

 目薬を注してこの赤目を治して喧嘩の勝敗をイーブンにしてやるつもりがどんどんと己の集中力を奪う要素を見つけてしまい、ゾロはそれに声を発して返事をする事が出来なかったが、頭は持ち主の意思に反してこくりと頷いた。

 

 やばい。次の喧嘩も負けそうだ。

リリース日:2010/11/27

戻る